2018-09-08

My Happy New Year!★我的新年

私事ですが、9月はワタクシの誕生月です。

そのせいか、8月も後半になってくると、いろいろな意味で心がソワソワ、ザワザワしてきます。
年末も視野の片隅に入ってきて、新しい手帳のことなど気になりだす時期でもあります。

特に今年は半世紀+1回目の誕生日を控えて、「50」という数字に中身が追いついていない感が沸き起こり、暑い夏と同様にジリジリとした焦燥感に苛まれております。昨年、半世紀を迎えて、自分なりに心機一転したつもりですが、さてどれほど変わったか、変われたか、と自問すると、けっこうキツいものがあり…(苦笑)

そんなこんなのグダグダ低空飛行モードを引きずりながら、地を這うようにグダグダ考えていて、思い立った。

9月を(自分の)新年にしよう。

ということで、勝手に謹賀新年。

My Happy New Year!

海外では10月に新年度が始まるところも多いけれど、それを1ヶ月前倒しでジブン的新年&新年度。

すると、1月、4月、9月、とそれぞれにいい頃合いで節目を意識できて、こりゃなかなかエエんじゃないかと。

といわけで、(今までも何となくそんな意識はあったように思いますが)今年からは明確に「9月」をジブン的新年と位置づけることに決定。

2018年9月、ALBA暦元年です(笑)

2018-09-07

予定の便に乗り遅れたら…シカゴ空港スッタモンダふりかえりの記

先般の台風21号で関西空港は大打撃、今なお閉鎖が続いています。その2日後(昨日)、北海道で地震発生、新千歳空港が閉鎖され、現在、二つの国際空港が閉鎖中という異例の事態になっています。夏季休暇のシーズンでもあり、国内海外の空の便の利用者で影響を受けた方も多いことと推察します。海外から日本の状況はどう見えているでしょうか。あらためて被災された方々に心からお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復旧を祈念しています。

さて、わが地元関西に話を戻しますと、職場でも関空閉鎖の影響をモロに受けた人が少なからず…1~3日ほどの現地延泊や大幅なルート変更を余儀なくされた人、ASAPで帰国するため(同一航空会社の代替でなく)別会社のフライトを正規料金で確保し帰ってきた人、そして本日現在まだ帰っていない人もいます。とにもかくにも全員、無事帰ってくることを祈るのみですが、ちょうど昨年3月、シカゴで国際線の乗り継ぎに間に合わず、広い空港であたふた、バタバタ、すったもんだしたことを思い出しました。災害ではありませんでしたが、人生初の大幅遅延、しかも海外、しかも一人で、ずいぶん心細かったものです。しかし、旅の経験値が一挙に上がったのも事実。この機会にふりかえっておきたいと思います。

下は、まさに現地からリアルタイムでつぶやいた(叫んだ!?)内容。相当テンパっている様子がうかがわれます(;^‗^)

「問題発生&助言お願い!グランドラピッズなう。当地発のAA国内便が遅延確定、シカゴ乗継ぎに間に合いません。他の便の空きもなく、ここに2日足留めされそうな形成ですが、こううい場合とにかくシカゴに行ってしまってキャンセル待ちでもする方がいいのか、グランドラピッズで確実な便を待つべきか?もし見られたらアドバイスお願いします!」
(誤字脱字等修正せず原文ママです)

この日、1週間のスタディツアーを終えて、ミシガン州グランドラピッズ発→シカゴ乗継→成田というルートで帰国予定のところ、最初のグランドラピッズ発AA国内線が天候不良により大幅遅延、もともとタイトだったシカゴでの国際線乗継ぎに間に合わないことが確定。カウンターであれこれ掛け合ってみたものの、望む選択肢がなく、どうしたものかと困り果てていたところでした。ふとモバイルルーターがあったことを思い出し、SNSへの投稿を思い立ったのでした。

果たして友人知人から続々とコメントが。具体的な助言・アドバイスから、励まし・encourageまで、一気にアウェー感から解放されるとともに、テンパったアタマとココロを鎮めてくれました。

まず悩んだのは、グランドラピッズに留まるべきか、ともかくシカゴへ行くべきか、の判断でしたが、友人たちのアドバイスで、ともかくシカゴへ飛び、ASAP帰国便の可能性を探ることにしました。

というわけで、定刻から数時間遅れのAA便に搭乗。シカゴに着いたらJALカウンターへ直行し、あとは楽勝!と思っていたら、そうは問屋が卸さなかった。JALカウンターがなかなか見つからなかったのです。キャリーケースを引きずりながら、広大なO'Hare Airportを右往左往。Informationで聞こうにも、タッチパネル式ばかりで、有人のInformationがない…(泣)

―ああ、人が恋しい…この広いオヘア空港で、こんなに人がいるのに、Informationに人がいないなんて…お願い、誰かJALカウンターの場所をおしえて…(哀)

結局JALのカウンターは見つからず、これでは埒が明かないと、手近の搭乗ゲートのAAスタッフに事情を説明し、そこで手続きをしてもらったと記憶しています。代替案は、上海経由だのLA経由だの色々なパターンがありましたが、とにかくASAPでdirectに日本へ!を最優先し、運よく空きがあった翌日の成田行きJAL便をrebookingしてもらいました。

というわけで、これにて一件落着、と思いきや、やはりそうは問屋が卸さず…期せずしてシカゴ1泊となったので、ホテルを押さえなければなりません。ここからがまた大変でした。航空会社リコメンドのホテルなら往復送迎つき&ディスカウントありということで、クーポンを渡されましたが(天候理由による延着なので全額負担はしてくれない)、「予約は自分でせよ」とのこと。しかも電話で!

―航空会社がホテル手配してくれないのね。まあDo it yourselfの国やもんな。しかし、この疲弊した状態で電話 in English…コミュニケーションのハードル上がっとるがな…(疲・汗)

気を取り直して、緊張のtelephone Englishも何とか乗り切り、聞き取りにくい固有名詞も何とかクリアし、無事近郊のホテルを押さえました。

ああ、これでやっと、やっと一息…と思いきや、さらにもう1ステップ残っていました。上の電話は予約専用ダイヤルなので、送迎依頼は「ホテルに電話して直接リクエストせよ」とのこと。

―(疲・疲)

しかし、朝からの数時間でかなりトラブルシューティング値が上がっていたとみえ、リカバリーは早く、ホテルに電話し(氏名が正しく伝わってなくてココでも少々ヒヤリ・ハット)、waiting spotを聞き、無事ピックアップされましたとさ。

これにて一件落着。

グランドラピッズを発って数時間。無事ホテルにチェックインしたときは、心底ホッとしました。

―どうせなら、いっそ最初からシカゴ1泊を組み込んどいたらよかったな~そしたら、街歩きでもできたのにな~

ホテルの部屋でコーヒーを沸かし、夕闇迫るシカゴの空を眺めながら、慌ただしい一日をふりかえる頃には、そんなふうに思えるぐらいのココロの余裕も戻っていました。

もともとシカゴでの乗り継ぎ時間が1時間という、あまりにタイトなスケジュールだったので、一抹の不安は感じていたのです。だから、さもありなんの感はありました。(手配してくれた代理店にも予約の時点で聞いてみましたが、これがその時点のbest choiceだったようでした。)

全くの想定外ではなかった(むしろかなりの確率で起こりうる事態だった)ので、まだしも動揺は少なかったかもしれません。英語の通じる国であったこと、先進国の大都市であったことも幸いでした(フライトやホテルの選択肢が豊富)。

翌日、早めに空港へ入ってひとしきりターミナルを散策したあと、搭乗ゲートでOn Timeの文字を見たときの安堵感。この2語がこれほど有難く貴重なものに思えたことは、未だかつてありませんでした。

蛇足ながら、昨日あれほど探し回っても見つけられなかったJALカウンターは、翌日いとも簡単に見つかりました。(←まさしく「あるある」)

そして、成田へ着き、あとは一路大阪へ帰るのみ!

と、思いきや、ダメ押しの国内便遅延。そのときのつぶやき(叫び)。

「ナンテコッタ5時間待った挙句、帰阪便のジェットスターまで遅延新幹線で帰ってりゃ大阪着いてるよな〜

最終に近い便だったので、関空に着いたのは夜半近く。最後の最後まで「問屋が卸してくれない」初アメリカ本土研修旅行でしたが、旅の経験値が上がったのは間違いありません。

最後に、この経験からの学びを総括。

★計画・手配段階★
①国際線の乗継ぎは少なくとも3時間以上、できれば5~6時間の余裕をもつ
②それが無理なら、時間や予算が許すならば乗継地1泊を組み込むのもアリ

★予定の便に乗れなかったら★
まずは航空会社のカウンターに行く
②基本的には航空会社のオファーから代替便を選択
③それが不都合なら、ニーズを伝えて同一エアラインで別便の可能性を探る
④②も③もダメなら他の航空会社を当たる(原則、自己負担・正規料金)
⑤遅延の日時・理由等を証明するドキュメントを航空会社にもらっておく(帰国後、旅行保険請求時に必要。なくてもOKな場合もありますが、あったほうがスムーズ&確実。)*
⑥予定外の宿泊が必要になった時もまずは航空会社に相談する
⑦宿泊先の領収書をもらっておく(保険請求時に必要。)*
*海外旅行傷害保険に入っておくことが前提

★コミュニケーション★
自分のニーズ・要望をはっきり伝える
自力で埒が明かないと思ったら躊躇わず現場スタッフにヘルプを求める
*ホテルの名前が聞き取りにくかったとき、最寄りのカウンターの女性スタッフにお願いして、代わりに聞いてもらいました。
③Wi-Fiが使えればSNSなどを利用しアドバイスを求める

★心構え★
優先したい事柄&順位を明確にしておく
*限られた条件下で素早くいろいろな判断・選択をしなければならいし、必ずしもbest choiceが可能とは限らない。適当な妥協点を見出すためにも、これは大切。例えば、お金がかかっても(正規料金やビジネス料金を払っても)ASAPで帰るのか、時間はかかっても費用負担のない方法で帰るのか、ルート(経由地など)はどうするか、など。

旅にハプニングはつきもの。適切な備えが基本ですが、どれだけ周到に準備してもハプニングは起こります。その時は、知恵と度胸と愛嬌で、人の助けも借りながら、我と我が身を守り、無事家に帰りましょう。

Buon viaggio a tutti! :-)



2018-09-06

池田の猪買い!?ー大阪府北部地震ふりかえりの記

昨日の台風21号体験ふりかえりに続き、3か月前の大阪府北部地震ふりかえりをアップしようとしたら、北海道で地震の速報。詳しい状況は分かりませんが、ともかく少しでも被害が少ないこと、そして一日も早い復旧を願います。

さて、すでに3か月近く前のことになったが、6月18日の大阪府北部地震での体験。

週明け早々の通勤途上に地震発生、脱線するかと思うような揺れ(左右と上方向に大きく2~3度?)のあと緊急停止。と同時に、スマホや車内放送で地震発生の報。そのまま待機すること約3時間、最終的に線路を歩いて最寄駅まで歩いて行った。規模は違うものの、阪神淡路大震災を知る身にも怖い揺れだった。

乗っていた列車が止まったのは阪急の十三と三国の間、新幹線と立体交差するあたりで、十三駅まであと少しの地点だった。なので、電鉄側のオペレーションとしては、何とか十三駅のホームまで車両を移動させたかったようだが、結局先行列車の車両を動かせず、乗客全員その場で降りて駅まで線路の上を歩くことになった。

それならいっそもうちょい早く降ろしてほしかった…と言いたい気持ちもないではなかったが、だが、これは想定の範囲内。文句をいう人もおらず、むしろ、ようやく外に出られる…という安堵感が広がった。停車地点が(鉄橋や高架線上でなく)地上だったので、缶詰めになっていた間も恐怖感が少なかったのは不幸中の幸い。大きな混乱もなくスムーズに降車が完了した。

そして、無事だったからこそ言えることではあるのだが、平常時には知る由もないレア体験ができたのも、ある意味で貴重な経験であった。

ネットでも話題になっていたようなだが、これは阪急電車のシートが緊急脱出用のスロープになったもの。


通勤、通学でかれこれ30数年間、阪急電車を使い続けているが、無論こんな光景を見たのは初めてだし、シートがこんなふうになるということを知ったのも初めて、さらに線路の上を歩いたのも初めてである。戦争体験はないが、ゾロゾロと線路の上を歩く様はどこか行軍のようでもあり、映画「戦場にかける橋」を思い出したりもした。

さて、3時間に及んだ車中缶詰体験で困ったのは、トイレ。特に女性は深刻。さすがに限界が近づいてくる…近くにちょうど草むらがあったので、男性は車両を降りて用を足していた。女性も、最終手段としては傘などで目隠しして草むらで用を足す…しかない。(実際そういうケースもあった。車掌さんが女性だったので、親切にサポートされていた。立派!)いよいよ限界が来たら、みんなで円陣を作って目隠しして、代わりばんこに用を足そうか!?…というような話も出た(女性専用車両だったので)。実際問題として長距離列車でもない車両にアレコレと設備は増やせないし、搭載できる設備にも限りはあろうが、非常時のためにコンパクトな簡易トイレ(いや、目隠しになるようなテント、シートでも?)あれば有り難いな~というのが、一乗客の素朴な願いである。

かれこれ15年以上も前のことだが、台風のため立ち往生した新幹線車中で14時間缶詰め体験もしたことがある。あの時の体験は、「新幹線(長距離列車)には、とにかく水と食物を持って乗る」という教訓として生きている。昼食や夕食の弁当を食べる以外、普通はあまり車中で飲食しないのだが、時間帯にかかわらず、また空腹か否かにかかわらず、こういう時のために水分と食糧を持っておくよう心がけている。

電車は交通手段の中でも、もっとも安全性の高い乗り物なので、普段ほとんど危険に遭遇することを想定しない。しかし、やはり天災、そして時に人災とも無縁ではないことを改めて認識する機会となった。毎日毎日、当たり前のように時間どおりに出かけて、時間どおりに目的地へ着き、何事もなくまた家に帰ってくるということ自体、実は奇跡みたいなものかもしれない。

して、池田の猪買い(いけだのししかい)とは?

この体験を当日SNSに書き込んだら、私の歩いて帰ったルートがまさに「池田の猪買いやね」というコメント。

ーなるほど!そうか。昔の人は当然のごとく歩いていた距離やな。

池田の猪買いとは、体が冷えて困っている男が、冷えに効くという新鮮な猪の肉を求めて、丼池(どぶいけ/大阪市中央区)から北摂池田(大阪府池田市)まで歩いていく、その道行きをネタにした古典落語。私が実際に歩いたのは、その半分ほどの距離かと思うが、いざとなれば池田の猪買いぐらいの距離は、四の五の言わずに歩ける体力脚力をつけておきたい、と思ったのである。

同時に、足が少々不自由な父があの電車に乗っていたら…ということも考えた。車中数時間の待機、脱出(降車)、線路上の歩行…かなり困難をきたしたことだろう。体に不自由がある人の外出・移動についても再考を迫られる体験であった。

台風による停電体験といい、生活の中に潜むリスク、そして日々を生きる心構えについて、今年は期せずして考える機会を与えられている。人生下半期、いや増すリスクをどうコントロールするか大きな課題。病気、老化、災害…生きるために考え、備えていきたい。

【参考リンク】
Wikipedia「池田の猪買い」
落語散歩「池田の猪買い」
YouTube 桂枝雀「池田の猪買い」

◼️2018年10月8日追記

先日、友人とごく打ち解けた話をしていて思い出したのだが、この体験に関して、困惑した、というか、少々不快な思いをしたことがある。それは意図せざる被写体となる心地悪さである。

いつもは走り抜けていく電車が線路上にずっと停まっているというもの珍しさからだろうか、道行く人の中にスマホやケータイで電車を撮影する人たちがいた。線路と道路はかなり距離があったのだが、無邪気な撮影者の姿は車中に缶詰めになった我々からハッキリと見えた。

次の瞬間、窓際の乗客は次々とブラインドを引き上げた。遠くから窓ごしに撮られるので、顔はぼやけて判別できないかもしれない。おそらくそうだっただろう。しかし、問題はそういうことではない。身動きが取れず相手に何も言えない状態で、何の断りもなく一方的に撮られることの不快感である。さらにそれは、SNSなどにアップされ、不特定多数の人に見られるかもしれない…たとえそこに特定できるような状態で顔かたちが写っていなかったとしても、現代のテクノロジーをもってすれば、どこからどんな風に自分のプライバシーが漏れ出し、思いもかけない転用(悪用)をされるかもしれない。。。そういう漠然とした不快感と不安感を、(窓から外を見ていた)乗客の誰もが感じ取ったに違いなかった。

無論、撮る側に悪気はカケラもなかっただろう。同時に、撮られる側の感情やプライバシーへの配慮もまた、ほとんどなかったと思われる。

誰もが簡単に情報発信のできる現代のあり方を否定する気は毛頭ない。実際、ニュース映像でも視聴者の投稿による動画は当たり前になり、それが事実や真実を広く知らしめることもある。

しかし、そこに「一方的に撮られる側」の他者がいるとき、それがたとえば満員電車の乗客といったような不特定多数のマスであっても、やはり一抹の配慮は必要なのではないだろうか。

自力でコントロールできない不本意な状況下での、同意なき被写体体験。今回のエピソードは、それ自体は強いて目くじらをたてるほどのことではないかもしれない。しかし、決して気持ちの良いものではない、この「ちょっとした」体験に、一億総発信社会の盲点を見た気がする。

街中で珍しい光景に遭遇したとき、好奇心からカメラを向けたくなったとき、そこに人がいるとき、ほんの一瞬手を止めて撮られる側の人のことを考えよう。無事缶詰め列車から解放されて、線路を歩きながら、そんなことを考えたのだった。

2018-09-05

防災考―台風21号ふりかえりの記

昨日9月4日の台風21号は、速度が速く滞留時間こそ短かったが、関西一円に甚大な被害を残して通り過ぎた。大阪北部に位置する拙宅の近辺は、木や建物の激しい破損・倒壊はなく、被害は軽かったが、昼過ぎから夜半にかけて停電。夜中(2時~3時頃?)に目を覚ますと既に復旧していたので、正確に何時に復旧したのか分からないが、これほど長時間の停電を経験したのは初めてだった。あらためて個人・家庭レベルでの防災体制の再考を迫られた。

昼過ぎに何度か短い停電があったあと、午後2時20分ごろに停電。そのまま夜になっても復旧せず、町も家も真っ暗。電気が来ないということは、明かりがないだけでなく、テレビもラジオもネットも使えず、情報がほとんど入ってこないことを意味する。唯一の頼みの綱はスマホだが、満充電でなかったため、バッテリー切れを気にして、むやみやたらなネットもできない。発電機やモバイルバッテリーがなく、しっかりした懐中電灯や短波ラジオ、乾電池などの備えも十分でなかったので、ハタと困った。また、当方は給湯が電気なので、風呂にも入れない。

幸い近くに住む妹の家は停電しておらず(同じ町内でウチのある1丁目だけが長時間停電となった)、日没からそちらへ退避させてもらったので事なきを得たが、全く電気がない環境で数時間を過ごすには我が家の備えは全くもって不十分で、日ごろの防災体制の甘さを痛感。6月の大阪北部地震での3時間車中缶詰め体験に続き、災害への備えと心構えを見直すきっかけとなった。

今回の経験は、被害といえるほどのものではない。本当に被災レベルになると、電気・ガス・水道などすべてのライフラインが停止し、その復旧には数週間~数ヶ月かかることもある。たった10時間程度、電気がないだけでも、実用面の不便だけでなく、心理面の不安が起こってくる。特に電気は情報入手の手段と直結しているので、テレビもラジオも使えない、スマホも最小限しか使えない、というのは堪えた。妹のところに一時退避できる環境があったからこそニュースで予想を超える被害状況も知ることができたが、ずっと自宅にいたら真っ暗な中で情報から遮断され、固定電話も使えず、いやがうえにも不安が募っただろう。

日が落ちても復旧の兆しは見えなかったが、私よりは防災の備えができていた妹宅からバッテリーやランタンを借りて自宅に戻り、とりあえず就寝。夜中に目が覚めたら、電気が点いていた。ホッとした。

日本は、世界でも有数の「物事が予定どおりに時間どおりに円滑に進む」社会。それだけに、想定を外れる事態への意識と備えが十分でない。考えてみれば子どものころは、日本も(災害でなくても)停電や断水がもっと日常的にあった。夕食時に電気がパッと消え、ロウソクを灯して晩ご飯を食べたこともあったと記憶する。昨今はそれこそ災害でもないかぎり停電しない。

エネルギー源の問題も含め、電力の安定供給はいずれの国でも大きな関心事だ。スマホやPC、ルーターなど種々のデジタル機器を誰もが使うようになり、社会全体として電気への依存度はますます増大している。だから、本当に電気がない、ということを真剣に考え、対策することを無意識のうちに回避する心理が働いているのではないか、と思う。特に、日本のように、普段「物事は想定どおりに回って当然」という感覚で生きていられる社会にいると、「想定外」への耐性が低くなる。加えて、自分は大丈夫だろうという正常性バイアスも働き、総じてリスクへの意識と備えが異様に低い日常生活を送ってしまう。

どんなにシミュレーションしても想定を超える事態は起こるし、すべての危険をゼロにすることはできないから、徒に不安に捉われ、日々の生活に支障をきたすほどの過剰な防御に走ることは賢明と思わない。しかし、たった10時間程度の停電で感じた不便と不安を考えると、己の「想定外」耐性の低さを認めないわけにはいかなかった。

日本は地震や台風など自然災害の多い国。特に未曾有の台風・水害頻発の今年、日常生活の一環として防災対策にきちんと意識を振り向けようと決意した。

2018-08-31

路上にインドの本質を見た!―印度亜大陸印象記その1

先週、インドへ行ってきた。デリー~ジャイプル~アグラ、いわゆるインドのゴールデン・トライアングル。正味4日の駆け足ツアーで、広大な印度亜大陸のほんの一部を見たに過ぎないが、長年行きたかったアジアの本丸。学生時代に企てながらも未遂に終わったインドへの旅、20年越しで実現した。

そんなインドの最大の印象。

道が凄い。

路上が凄い。

タージ・マハルもジャンタル・マンタルもアンベール城もすごいが、インドの何がすごいって、道が凄いのだ。そこで、ナマの印象が生きているうちに、何はともあれインドの道について書いておきたい。

野良ウシ@高速道路脇

野良サル@高速道路脇

高速道路を悠然と歩くゾウ(野良ではありません…笑)

賑やかな巡礼の行列

インドの道路は凄い。今まで行ったアジアのどの街とも違う。交通量が多いのは、アジアの都市共通の現象だが、路上でのバラエティが桁違いなのだ。クルマ、リクシャー(オート三輪タクシー)、バイク(人数無制限!?)、ヒト、ウシ、犬、サル、ロバ、馬車…およそ動くものほどんどすべてがひしめいている。クラクションは常時鳴り響き、ウィンカーは殆ど出さない。信号は必要最小限しかなく、無視も日常茶飯事。バイクは3人乗りスタンダード、50ccの原付に一家5人乗りとかも決して珍しくはない。母親の腕からずり落ちそうなベビーを乗せて疾走するファミリーバイク、サリー姿の女性がノーヘルメットで後部に横乗りしている光景もごくありふれたもので、日本ではおよそ許容されないドライビングシーンの数々。

高速道路も然り。そもそもインドの高速道路は、自動車専用道路ではない。(法律上は知らないが…)高速といっても、高架であったりフェンスで仕切られているわけではないので、ヒト、ウシ、サル、手押し車、馬車・・・基本的に何でも出入り自由なのだ。人も普通に横切っていったりする。集落がある辺りでは横断歩道があり、スピードダウンを促すために、車の走行を遮るような形で衝立が置いてあったり。(減速しながら衝立の間を通り抜ける。)構造的にも完全な一方通行仕様になっていないので、反対車線の車やUターンした車がひょこっと逆走してくることもある。軟弱な乗客たるわれわれはギョッとして肝を冷やすが、ドライバーもガイドも表情一つ変えない。そんなスリリングな高速の路肩や分離帯では、のんびりとウシが寝そべっていたり、草を食んでいる。

―あ、あのぉ、高速に人が入ってもいいんですか… ・o・/
―え、えっと、高速にもウシがいるんですね… f^_^;


―(間)それがインドですよ(微笑)

野暮な私の質問に、ボードガヤー(ブッダガヤ)出身の仏教徒だというガイドのG氏は、菩薩の微笑を湛えて答えた。パーフェクト・アンサーだと思った。これ以上端的にインドを物語る答えはないと思った。

ヒトもクルマも動物も、自分たちの動きたいように動く(ように見える)。至る所で接触や衝突が起こっていても不思議でない状況と映るが、意外にも事故はなく、ドライバーの喧嘩やもめ事もない。(少なくとも4日間、一度も見なかった。)

一見カオスに見える路上には、確かに「秩序」があった。そのあり方が私たちの考える秩序と大きく異なるということであって、「カオス」とは違う。

ヒトも動物も、老いも若きも、ありとあらゆる生きとし生けるものがひしめきあう路上。それは不思議に開かれた場所だった。厳格な身分制度や激しい経済格差が存在するインドにあって、路上は不思議に自由なオーラを放っていた。

■旅のあしあと *は世界遺産

August 18, Sat. KIX→Delhi, Indira Gandhi Intl.Airport
August 19, Sun. Delhi→Jaipur
ラクシュミーナーラーヤン寺院、フマユーン廟*、クトゥブ・ミナール*
August 20, Mon. Jaipur
ハワ・マハル(風の宮殿)、シティ・パレス(マハラジャの居城)、ジャンタル・マンタル(天文台)*、アンベール城*
August 21, Tue. Japiur→Agra
ファテープル・シークリー*、アグラ城塞*、タージ・マハル*(正面反対側の川の対岸から)
August 22, Wed. Agra→Delhi
タージ・マハル*(入場観光)
August 23, Thu. KIX着

2018-04-06

ネウティブ英会話?!

よく通る道沿いの英会話教室の窓に、大きく書かれている↓

「ネウティブ英会話」

ん?ネウティブ?ネイティブ?ネイティヴ?

英語をカタカナで正確に表記することはできない。
とはいえ、通るたび「大丈夫かいな、ここ…」と思わずにはおれない。

まぁ、イタリアンレストランで Itarian と書かれた看板を見たこともあるし、native が ネウティブ でも大した問題ではないかもしれない。

高校時代、学校でいちばん怖かった英語の先生は、原音主義なんて所詮気休めだというようなことを言っておられた。たとえば、Washington を ワシントン と表記しているが、原音に近づけるならばウォッシントンとでもすべきだろう。しかし、それとて日本人の発音では、英語のそれとはかけ離れたものになる。そもそも英語には日本語にない発音も多いのだから、こだわりすぎるのはナンセンスだ、というような主旨だったと思う。

大学に入り、論文を書く段になると、しかしながら、外国の地名や人名のカタカナ表記は、けっこう悩ましい問題になる。学問の領域では、なるべく原語の発音に忠実に表記するのが原則というか慣例なので、例えばベネチアではなくヴェネツィアとか、セルヴァンテスではなくセルバンテス(スペイン語ではVの発音はB)とか、いろいろ気にしなければならない。ギリシャ語やラテン語となれば、さらに事情は複雑だ。ソクラテスかソークラテースか、プラトンかプラトーンか、ウェルギリウスかヴェルギリウスか、とか。口頭試問でけっこう突っ込まれたりもする。書物の冒頭に、外国語表記についての凡例が記されているのを目にすることも多いと思う。論文や専門書では、人名など一般に流布しているのとはかなり違う表記がなされていることも珍しくない。

というようなことを、昨日バスの中でつらつらと書いていたら、うっかり停留所を3つも乗り過ごしてしまった。30分ほど余計に歩くことになったが、ほどよいウォーキングの機会が得られたのでよしである^o^

して、もとの話題。特にオチも結論もない、「ネウティブ英会話」という看板から広がった単なる連想だが、たしかに原音に忠実にといっても、限界がある。最近アイスランドに行ったのだが、アイスランド語の子音などカタカナで正確に表記することはほぼ不可能に近い。だから、(日常においては)こだわりすぎるのもどうかと思う。

が、しかし、nativeをネウティブっちゅーのはなぁ…教室の中身に一抹の不安を感じてしまうな~けど、ネイティヴとまでやらなくてもいいような気もするしな~。どんなもんやろな~。

という、ただそれだけの話である。

閑話におつきあいいただき、ありがとうございました<(_ _)>

2018-04-04

Travelog

旅が好きだ。

言葉としては、「旅行」より「旅」が好きである。なんとなく漂泊感があるからだろうか。

旅行が「趣味」かと問われると、YESというにはちょっと違和感があるのだが(個人的な旅でもある意味フィールドワーク的な面があり…)、いろいろなところへ行きたいという素朴な思いは、子どものころから今に至るまで変わっていないと思う。

といっても、それほどヘビーなglobetrotterではなく、まあほどほどのtraveler。旅程らしい旅程もなく、思い立って2~3日で飛行機や1~2泊分のホテルだけ手配して単身バタバタと旅立っていた時期もあるが、近年はだいたいパッケージツアーのお世話になっている。

そんな「ほどほどtraveler」だが、旅の記憶は綴っておきたいという思いをずっと思っている。写真も整理・編集してアルバムにできればベストだが、そこまでいかずとも、自分にとっての旅の記憶をまとまった形にしておきたいという欲求がある。旅というものは、自分の精神に何かとても本質的に大事なものを与えてくれていると感じるからである。

そう思いながらズルズル時が経っていることにまた、己の実行力のなさを見せつけられ、ちょっとイヤになるが、とりあえず旅のログだけでもメモっておくことにした。

1992.01 London 8days
1995.   香港・マカオ 4days
1996.02-03 Italy & Spain 13days
1996.08 Singapore 4days
1997.07 Assisi, Italia 16days
1998.08 Paris, Italia (Milano, Bologna, Parma, Padova, Vicenza, Trieste) 3wks
2000.08 Italia (Emilia Romagna, San Marino, Friuli-Venezia Giulia), Belgium (Brussels, Brugge, Entwerpen) 3wks
2001.01 Paris, Brussels
------------------------------------
2007.09 Nouvelle Caledonie 8days
2008.03 Hawaii 5days
2008.07 韓国(釜山→半島西部を北上→ソウル) 5days
2009.02 台北 4days
2009.09 Italia―Venezia, Firenze, Roma 8days
2010.05 ソウル(UNESCO-WCAE) 5days
2010.08 北京 5days
2011.03 Turkey 8days
2012.03 Bali & Yogyakarta 7days
2012.08 台湾 周遊 5days
2013.08 釜山・慶州・ソウル 4days
2014.02 Nha-Trang, Vietnam 7days
2014.08 Ko Samui, Thailand 7days
2016.02 Hanoi (Vietnam), Angkor (Cambodia) 7days
2017.03 Czech, Austria, Hungary 8days
2017.03 Boston (Massachusets), Grand Rapids (Michigan) 7days
2018.03 Iceland, Helsinki 8days

2001年までは基本的に、Italia! Italia!! Italia!!!である。かなり長い休みを無理にでも取って、自分で手配して一人で行っていた。
2007年以降は、基本的にはツレと一緒の旅である。2人の予定を摺り合わせ、日程ありきで適当なツアーを探す形で決めた行先で、前もって強い思い入れがあったわけではない。
2001~2007年は、ほとんど休みらしい休みが取れず、海外旅行もまったくしなかった期間である。

書き出してみると、空白期間をはさんで、その前と後では旅の仕方が変わったけれども、どの場所でもやはり驚きと発見があり、それまでの了見が少し広がったことを思い出す。

人生の正午を迎えて、いつでも行けるわ~と思っていた旅先も、体力その他もろもろを考えると、だんだんハードルが上がってくるかもしれない。なので、いつまでも「いつでも…」というわけにはいかんな、ハードな場所には早めに行っておこう、と思うようになってきた。

旅は人気のレジャーだし、今や地球上のたいていの場所に、かなり安全に行けるようになった(ように見える)。本でもブログでも、旅の情報や紀行文は百花繚乱。しかし、自分にとって旅とは何なのか。情報伝達ではなく、自分にとっての旅の意味を深めてみたいと思う、人生のお昼どきALBAでありました。

2018-04-03

なわとび

最近、思うところあって、「なわとび」を始めました。

なわとびといえば、高校時代、文字どおり「縄」を使った二重跳び(前回し&後ろ回し)が体育の試験で課せられ、入学当初、ヒュンヒュン、ヒュンヒュン、と音を立てながら、家の庭で練習したのが鮮明な記憶。前回しと後ろ回しの二重跳びをそれぞれ所定の回数クリアしないと体育の単位がもらえず、パスするまで追試が行われ、わが校のちょっとした名物でした。

それから幾星霜。久しぶりに跳んでみると、けっこういい運動なんですねぇ、なわとびって。高校時代の「縄」と比べると、先日購入したものはいかにもライトなビニールの紐ですが、それでも一重跳びで連続50回ならず…(悔涙)二重跳びは、なおのことハードルが上がります。

子どものころは「遊び」だったなわとび。今となっては「エクササイズ」。その変化がちょっとサミシくもありますが、「なわとび」は、なまりつつある部分、そしてそこに適切な負荷をかけていくことの大切さを気づかせてくれました。

人生の正午。「昨日よりちょっとシンドイ」を心がけてみよう。



2018-02-07

楽器&me その2~青春のクラリネット

楽器と自分との関係を軸に、細く長い音楽との縁をふりかえる「楽器&me」シリーズ。

第1弾「恐怖のピアノ」に続いて、第2弾はクラリネットです。

幼少からのコワイ親父レッスンへの恐怖と反発から、ピアノは金輪際ゴメンじゃとばかり、中学生になると、半ば確信犯的にフェードアウトしていきました。しかし、「やめる」とはっきり明言せず、なんとなくズルズルとフェードアウトに持ち込んだことは、自分の中にある種の不全感を残し、一抹のうしろめたさを残したのも事実。それが、高校に入ってクラリネットを始めた遠因かもしれません。

中学時代は軟式テニスをやっていて、高校に入っても基本的には運動系のクラブに入ろうと思っていました。それが、入学した学校にたまたま「オーケストラ部」があって興味をそそられたこと、同じ学校に通っていた近所の一学年上の先輩がオケ部に入っていて、たびたび声をかけてくれたことがきっかけで、なんとなく心が動いて見学に行ったのでした。さらに、小学校時代、仲の良かった友だちのお姉さんが、やはり同じ高校の出身者で、オケ部でヴァイオリンを弾いているという話を聞いていたので、そのころから好奇心を覚えていたかもしれません。最終的には、新入生歓迎演奏会で聴いたベートヴェンの交響曲第8番にけっこうマジで感動したことがキメ手になりました。

正直なところ、実際の演奏を聴くまでは、高校に入って始めた人が主体の部活のオケって、どの程度?…と、かなりいぶかっていました。が、少なくとも私の期待値をかなり上回るレベルではあり、高校から始めても、こんな本格的な曲が演れるのか、と素直に感動したものです。これが吹奏楽だったら、入っていなかったのではないかと思います。部活として一般的な吹奏楽ではなく、高校(しかも公立)にはめずらしい管弦楽であったことが、私には魅力的でした。吹奏楽はともかく、オーケストラというものは基本的にプロまたは音楽専攻の人がやるものだ、という先入観があったからです。

そうして入部を決めたオケ部でしたが、選んだ楽器は弦楽器ではなく、木管楽器のクラリネット。せっかくオケに入ったので弦楽器に心を動かされつつも、もともとクラリネットが専門であった父親への配慮というかというか遠慮というか、そういう気持ちが働いて、いわば消極的な理由からクラリネットにこだわったのでした。(モーツァルトのクラリネット協奏曲&五重奏曲が好きだった、という積極的な理由もありました。)父からクラリネットをやれと言われたわけでも、教わったわけでもありませんが、ピアノを一方的にドロンしたことへの罪ほろぼしというか埋め合わせというか、当時の自分なりの父親への「忖度」だったのかもしれません。(ただし、父にレッスンを受けることは一切しナシ!これはピアノだけで十分。)

そうして、(自分の中で)スッタモンダしながら始まった高校のオケ生活。果たして、まさしく「青春のクラリネット」。自分史上でも最高にオモロイ(おもろすぎる)悪友もとい良き友に恵まれ、素晴らしき先輩後輩に恵まれ、今に続く最強の友人ネットワークの基盤となりました。自分がいちばん気楽に、自由に、ありのままでいられる場所でもありました。

高校から大学にかけての、感性鋭敏(過敏)な、喜怒哀楽に富んだ人生の早春。音楽ライフは、やはり時に「音が苦」。いつもいつも楽しいばかりではありませんでしたが、笑いも涙も悩みも喜びも、クラリネットとともに、そしてオケとともにあったような気がします。アンサンブルの楽しさを知ったのも、このころでした。

もし、この時代のオケ経験がなかったら、幼少からのピアノ経験だけだったら、今、音楽をやっていなかったかもしれません。この後、大学を出てからは、すっかり音楽アウェーな十数年を過ごすことになります。楽器を演奏したり楽譜を読んだりすることはおろか、コンサートに行くことも、CDを聴くことさえも、めっきり少なくなってしまいました。その中でも、「またいずれ音楽をやりたい」という心の火が完全に消えることなく、微かにでも灯り続けていたのは、オーケストラを通じて、大小さまざまなアンサンブルの喜びや愉しみ、(うまくいったときの)感動を経験していたからだと思います。

子どものころに嫌々ながらやっていたピアノは、ソルフェージュや読譜などの基礎をつくるのに役立ったかもしれませんが、音楽が好き、楽しい、という精神的な基盤は、主にオケ経験によって育まれました。幼少期の根深い「音が苦」体験にもかかわらず、音楽への思いが苦痛一色に塗り込められなかったのは幸いでした。

今はケースの中で百年の眠りについているクラリネットたち…いずれまた、怪しい調べとともに呼び覚まされる日を待っているかもしれません。

2018-01-30

旧姓併記パスポートの取得

今般、パスポートの申請・名義変更を機に、旧姓併記のパスポートを取得しました。

パスポートへの別名併記は、現時点では一定の条件のもと、あくまで例外的に認められる措置ではありますが、国際結婚をした人や海外で旧姓を使って仕事をしている人を中心にニーズがあります。かつては国際的に相当著名な学者やジャーナリストでなければ併記は認められませんでしたが、近年はずいぶん門戸が広がってきたようです。

私はずっと旧姓で仕事をしています。晩婚だったこともあり、今なお社会人生活の大半が旧姓によっており、パスポートも昨年期限が切れるまで旧姓のままでした。友人でも私の現姓を知っている人の方が少ないぐらいです。新しいパスポートの申請にあたり、いよいよ戸籍姓に名義変更することになりますが、諸々の便宜を考えて、旧姓を併記しておきたいと思っていました。

手続きの要領(必要な添付書類など)は、申請窓口の都道府県によって多少違うようですが、検索でヒットする体験者のブログ記事は東京都の事例がほとんどで、大阪府で取得した人の記事が見あたらなかったので、参考までに書いておきます。

結果からいうと、大阪府はちょっと拍子抜けするほどアッサリしていました。事前にパスポートセンターに電話をして確認したところ、旧姓使用証明書(旧姓で仕事をしており、業務上海外渡航の必要があることの証明)があればよいとのことでした。勤務先の代表者や所属長に証明してもらうのですが、私は自分が団体(NPO法人)の代表なので、自分で自分を証明することになるが、それでも大丈夫かと念を押したところ、OKとの返答。それで早速、大阪府のサイトに載っている書式例にしたがって書類を作成し、法人の印を押して証明書を作成しました。

これだけで良かったのかもしれませんが、いちおう第三者の証明書もあった方が確実だろうと思い、念のため非常勤先の大学にも旧姓使用証明書を発行してもらいました(大学の書式で、旧姓を使用していることの証明のみ)。実際に手続した感触では、こちらは無くても良かったみたいですが、いちおう提出しました。

体験者のブログでは、役所に言われたとおり書類を揃えていったのに、窓口で足りないと言われた、などの話を散見したので、念のため(上記証明書のほかに)国際会議のエントリーのメールなど証拠になりそうなものも用意して、申請窓口へ行きました。結果的にそれらは必要なく、特に提示も求められませんでした。

都道府県によっては、事情説明書等の提出が必要なところもあるようですが(ex.東京都)、少なくとも大阪府パスポートセンターでは旧姓使用証明書(と口頭での説明)だけでOKでした。

2019年度をメドにパスポートへの別名併記を自由化するとの方針が示されたので、今後はいっそう審査基準も緩和されていくのではないかと思います。
https://www.asahi.com/articles/ASK505634K50ULFA01X.html

もし切り替えのタイミングが来年以降だったら、話はさらに簡単だったかもしれません。原則的には申請のみで併記を認める方針のようですので、そうなれば上のような証明書も余分の手続きも不要になることでしょう。今後の成り行きを注視しましょう。

なお、旧姓併記パスポートの申請や使用にあたっては、下記の点に要注意です。

■旧姓は括弧書きで戸籍姓の横に印字されますが、ICチップには登録されません。よって、航空券予約等の際には、どの氏名表記で予約するか航空会社や旅行代理店に確認が必要です。(旧姓を含めるのか含めないのか、など。)

surname □□□(△△△) ←括弧内が旧姓
name   ○○○

■現在は多くの市町村でパスポートの申請・交付ができるようになりましたが、外務省との協議を要する特殊な案件については、(従来どおり)都道府県の対応になるようです。市の窓口に確認していないので断言はできませんが、旧姓併記はいちおう審査を要する案件なので、おそらく特殊な案件に該当するであろうと推察し、初めから府のパスポートセンターに問い合わせました。(そもそも市町村より都道府県の職員の方が対応件数も多く、特殊案件にも明るいと考えられます。)

■自筆署名では、現姓と旧姓の併記はできません。日本語でもローマ字でも、括弧書きで旧姓を併記したり、複合姓のような形にはできないとのことです。ただし、現姓か旧姓かは、どちらを使ってもよいそうです。よって、現姓 or 旧姓のどちらかで自署することになります。(自己責任のもと)どちらでサインしてもよいと窓口で言われ、混みあうカウンターでしばし迷った末、自筆署名は日本語の戸籍名にしました。

●その他もろもろ、入国審査や宿泊先等で本人確認に関して疑義がもたれたりした場合など、基本的にはすべて自己責任で対応することになります。

いずれにしても現時点ではあくまで例外的な措置ということで、実際にどの程度の実質的価値があるかは分かりませんが(思ったほどメリットがないという体験談もチラホラ…)、少なくとも旧姓と現姓の連続性を証明する公文書ではあるので、国内外を問わず社会人生活のほぼ9割がたを旧姓で営んでいる自分にとっては、一定のご利益はありそうです。

以上、大阪府で旧姓併記パスポートの取得を考えている方へのご参考まで。

※あくまで一個人のケースであり、個別の事情に応じて、提出を求められる書類等が異なる可能性がありますので、旧姓併記を望される方は必ず所管のパスポートセンターにお問い合わせください

<参考>
大阪府/別名併記の取扱い
http://www.pref.osaka.lg.jp/passport/top/betsumei.html
外務省/パスポートQ&A
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/pass_4.html#q16

2018-01-29

ある別れー伯母の思い出

渦潮で有名な瀬戸内のまちに住む伯母が亡くなった。

その日の朝もいつもどおり丁寧に身づくろいをし、仏壇にお供えをし、いつもどおりの一日の始まりだった。が、仏間を出たすぐの廊下で、玄関に向かい、拝むような姿勢で倒れていたのだという。

行年85。去年の暮れに電話で10分ほど話したのが最後になった。ずっと達者な人だったから、たぶん90までいくだろうと、そんな気がしていた。いとこたちもそう思っていたそうだ。あまりに突然の別れに、一緒に暮らしていた長男一家も驚きを隠せなかったようだ。

「達者な人」

そう、伯母は「達者な人」だった。「元気」とか「健康」とかいうのでは、何か物足りない。働き者で、頭も体もよく動き、何事にも労をいとわない、達者もの。カラッとした性格で、趣味も多く、社交家だった。達筆で、筆まめで、母とはよく手紙のやり取りをしていた。昔ながらの信心深さや義理堅さをもちながらも、職業婦人(レトロな響きだね…)らしく合理的な考え方をする人で、因習の類にはとらわれなかった。そんな人柄を反映してか、葬儀には大勢の人が集まり、合唱サークルの仲間たち(小学生&シニアの混成部隊)は故人のために歌まで披露してくれた。(これには親族一同感涙)

達者という言葉、そういえば最近あまり聞かなくなった。アクティブとかバイタリティとか、そういう言葉に取って代わったのかもしれないが、「達者」という言葉には、単に病気がないとか、活動的というだけでない、生き方の姿勢みたいなものが含まれているように思う。

伯母も年相応に持病や体の不調はあったし、医者にも通っていた。特に近年は腰痛がきつく、つらかったようだ。それでも、伯母は終生「達者」であった。

それぞれ四国と本州で海を隔てて住んでいたから、伯母とも従兄姉たちとも、そうしょっちゅう会えたわけではなかった。本四連絡橋がなかった当時、阿波踊りの季節にほんに1~2日遊びに行くのが精いっぱい。それでも、いとこたちの中でいちばん仲の良かった6つ年上の従姉のいる伯母の家に泊まりにいくのは、夏の最大の楽しみだった。

葬儀に向かう道すがら、小さな島の海岸線を車で走っていると、水着のまま海岸まで走っていって遠浅の海で泳いだこと、井戸水でほどよく冷やしたスイカの甘かったこと、五右衛門風呂やおくどさんのあった古い家の記憶などが次々とよみがえり、それとともに、いつもシャキシャキ歯切れのよかった伯母の姿が思い出された。

あまりに突然の別れで、末期の水をあげたときは涙が溢れ出て止まらなくなった。しかし、本人はひ孫の顔まで見て、ピンピンコロリの大往生。悲しいことも苦しいことも乗り越えて、85年の人生を生ききり、何も思い残すことなく旅立ったと思う。現在の女性の平均寿命からすれば、必ずしも長命とはいえないかもしれないが、今流に言えば、伯母のQOLはきわめて高かった、ということになる。

欲をいえばあともう少し長く生きてほしかったが、これは周囲の煩悩というべきで、本人は十分満足して逝ったに違いない。長年の介護の末に亡くなった親族も見てきたので、この伯母の逝去は、惜別の涙の中にも希望のある、天晴な引き際であった。合掌。

2018-01-16

「生き方」と「生活」

―その人の生き方は読み取りたいけど、
生活を教えてほしいわけじゃない―


家庭料理のレシピ本『LIFE』シリーズの作者飯島奈美さんを囲む座談会での、吉本ばななさんの発言の一部。
http://www.1101.com/life/life_talk/2017-12-18.html

詳細は上のサイトに譲りますが、もう少し長く引用すると、次のようなものです。
  
ばなな:
そうそう。
私は本のことしかわからないから、
書籍としての感想だけ言います。
うまく伝わるかわからないけれど、
私は、その人の生き方は読み取りたいけど、
生活を教えてほしいわけじゃないんです。

・・・略・・・
 
ばなな:
料理って生活の中から出てくるから、
こういう旦那さんがいて、
こんな家に住んでいて、
食器はこれが好きで‥‥っていう、
その人の暮らしを入れた本が多いですよね。
『LIFE』はそこを潔く
切り捨ててるところがいいと思います。
美学があるというか。


言いえて妙。

料理本に限らず、(特定の個人の)最近「ライフスタイル」そのものが前面に出ているメディアが多いように思います。芸能人やスポーツ選手など著名人で私生活を公開する人は多くなったし、芸そのものよりもライフスタイルで売っているのでは?と感じることも少なくありません。有名人でなくてもブログやSNSで百花繚乱の「ライフスタイル」が発信されています。

SNSで他人の投稿を見ると落ち込むから見ない、という人が少なからずいます。私はふだんはSNSで楽しく遊んでいますが、忙しかったりfeel down気味の時などは、やはり自ずと足が遠のきます。誰しも大なり小なりそういう傾向はあるのではないでしょうか。こうした仮想空間にあふれているのは、たいてい“オサレでステキな暮らしぶり”なので、そうでない自分の現実とひきくらべて、ヘコんだり、情けなくなったり、自己嫌悪に陥ったりしてしまうのです。

もとより別世界の銀幕のスタァ(いまや古典語か…)の雲の上の夢のやうな暮らしならともかく、幾多の「普通の人々」の「とってもステキな暮らし」は、「普通の人々」にとって無言のプレッシャーとなります。

人は人、自分は自分…と正論を吐いてみても、否応なく見せられる「オサレな暮らし」「ステキな暮らし」は、「オサレでもステキでもない」己の日常の現実をいやがうえにも突きつけ、まるでポジに対するネガのごとく、自分の生活は人に見せるべき何物もない、無価値なものだと苛まれるという、厄介なネガティブ・スパイラルの温床になるのですよ。

考えてみれば、自分の暮らしぶりなど、あえて他人様に見せる必要はないし、同様に他人様の暮らしもあえて見る必要はない。とても素敵に暮らしている人がいるとして、自分もあんなふうに暮らしたい!どうすればいいのか知りたい!と思えば、その人のライフスタイルを見るなり聞くなり真似るなりして、取り入れていけばよいと思います。しかし、そもそも日々の暮らしを他人に見せる必要はないし、見せてもらう必要もない。それを、(とてもオサレでステキな形に加工・編集して)否応なく見せられてしまうから、時としてネットライフ、とりわけSNSはひどくtiresomeなものになってしまうのかもしれませんね。

そういえば、かつてとあるシンポジウムで、「ライフスタイルという言葉は嫌い」と言っていたデザイナーがいました。いわばライフスタイルを提案するデザイナーの口からこういう発言が出てきたのがちょっと意外で、ずっと心に残っています。特にそのことを掘り下げては話さなかったので、真意は分かりませんが、もしかするとこういう風潮を暗に示唆していたのかも?と、今にして思います。

「となりの家の皿の数まで・・・」というのは、かつてのムラ社会的な閉鎖性や閉塞感を象徴する定型句でしたが、現代はまた違った意味で、あの人はどんな部屋に住んでいて、どんな食器を使っていて、どんな店でパンを買っていて、どんな銘柄のジャムを食べている、といったことまで、ものすごいボリューム感で「人の暮らしの中身」を見させられてしまう時代。(なんというか、ビジュアル的にとてもキレイなんだけど、あんまり見続ける/見せられ続けると疲れる・・・?)

『LIFE』を読んだことはないのですが、料理という暮らしに近いテーマでありながら、作者個人の暮らしはあえてそぎ落としたという点に興味をそそられます。そこに逆説的に作者の「生き方」が垣間見えるかもしれず、そうした期待も込めて、一度この本を見てみたいと思っています。

2018-01-15

2018MYキーワード

今年の自分的キーワードが決まった。

・覚悟
・統合
・面白さ

である。

文にすると、

覚悟をもって
今までやってきたことを統合し
面白いことをやっていこう

となる。

このなかでいちばん大事に思っているのが、「面白さ」である。

私は、自分の言ったこと、やったことが「面白い」と言われたとき、最高にハッピーである。「素晴らしい」とか「立派だ」と言われるより嬉しい。(あまり言われたことはないがw)

気のおけない旧友などに会うと、しみじみ「あんた、ホンマにおもろいなぁ」と言われることがある。学生時代、かなりカゲキかつアホなことを言って友と笑い転げていたので、旧友に会うとその身体記憶がカムバックして、面白さのスイッチが入るのかもしれない。

ひるがえって、現在。

―昔より面白くないんとちゃうか?自分。。。

まあ、それなりには面白いかもしれないが、いろいろな意味で「面白さ」を忘れていたように思う。

「面白し」とは、もともと目の前がぱっと明るくなる感じを表すのが原義といわれる。
いわゆる楽しい、愉快、滑稽、可笑しい…などほか、景色などが明るく広々として気分がはればれする感じ、対象の事物が普通の基準からみて新鮮・奇抜で変化に富み、興味をそそる、などの意味合いがある。

人が「面白い」というとき、それは単に笑えるというだけでなく、どこか新しい切り口、今まで考えたこともなかったような視点に、目から鱗が落ちるような感覚をともなっているのではないか。

英語のinterestingは、(主として知的な)興味・関心をそそるような面白さを表すが、日本語の「面白い」は、もっと広がりのあるconnotationをもっているように思う。interesting も好きな語だが、やや知に傾きすぎているきらいがあり、「面白い」のもつ豊饒な世界観を表しきれない。

というわけで、OMOSHIROIを、MOTTAINAI、KAWAIIに続く世界標準のニホンゴにしよう、というひそかな野望を抱いている。

人生のおひるどき(只今正午です)、あらためて「面白い/OMOSHIROI」を追求します。

2018-01-14

一年の計、百年の計

人生100年時代、などとまことしやかに言われるようになった。政府にそんな会議まで出来ている。

実際に100年生きるかどうかはともかく、現実問題としてそれを想定せざるを得ないほど、国民全体の平均寿命が延びているは事実だ。そして、それに伴い、かつてのように長寿が無条件に、手放しで、めでたしめでたしなものでなくなってきたのも確かだ。

共同体の中にごくまれに90歳や100歳の人がいて、寿がれた昔とは事情が違う。今や相当の割合で超高齢者の母集団が存在し、かつ子ども・若者は少ないのだから、先行きに漠然とした不安感が漂うのも無理からぬことだ。将来いい老人ホームに入るためにせっせと蓄財に励むのも一興だが、カネだけで不安が解消されるとも思えない。PPK(ピンピンコロリ)が理想といっても、こうすればそうなれる、という約束された方法もない。“不老”長寿なら問題なかろうが、実際には“老”長寿だから、未曽有の「老いた人/老いゆく人」のボリューム感に、個人も社会も意識と対応がついていかず、世の論調も悲観と楽観の両極を揺れ動いているように見える。

齢を重ねるにつれて、病気や、老いや、死への備えを意識せざるを得なくなる。しかも、現実としての死はいつ訪れるか分からないから、いったいどんな想定で、何を、どのように、どのぐらい備えればいいのか、究極的には分からない。人によって考え方は分かれるところだと思うが、自分としては、国家百年の計ならぬ個人百年の計、「自分百年の計」を立てようと思い至った。100年スパンで見るならば、ただ今、人生の正午ジャスト。この年を、「これからの50年の基盤をつくる元年」にしようと決め込んだのだ。

確実に、体はエイジングしている。若い時のように、何もしなくても何となく元気…というような希望的観測のもとに生きているわけではない。要介護生活の現実も目の当たりにしてきた。さりとて、日々最善を尽くし悔いなく生きているかといえば、全くダメダメである(汗)。やりたいと思いながら未だ手つかずのことも多く、自分のダメっぷりにジリジリとした焦燥感しきり。正直、ここ数ヶ月かなりdepressedな日々を過ごしてきた。

そんな中で、ふと、「人生100年」の言葉が腑に落ちた。今の自分の視座から「100年を生きぬく」ために、「今日できること」は、「今日をよりよく生きること」へと繋がるような気がしたのだ。

これからの50年は、確実に「老い」の道程を歩いていく道行きである。100年という時間を、最後まで自立的に喜びをもって生きぬくことは、そう簡単なことではない。運もあるだろうが、努力とビジョンとスキルも必要に違いない。それは、単に生きていく、というよりも、むしろサバイバルである。

かつて、これほどのボリュームで世の中に超高齢者が存在したことはないので、スーパー高齢社会サバイバル術は、未だ確立されていない。過去の経験値に基づいてそれなりの確度で予測でき、社会的に共有できる穏当な近未来像が描けない、というのが、今私たちの置かれている地点なのだと思う。だからこそ、このサバイバルは、冒険でありチャレンジでもあるのだ。

人生100年時代を生き抜く技術

こいつを本気で追求してやろう。
そう腹をくくると、「今この時」が妙に楽しくなってきた。

そんなことを思いつつ、ようやく届いた『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』のページをパラパラとめくる、2018年の小正月でありました。

今年もどうぞよろしくお願いします。