2018-01-14

一年の計、百年の計

人生100年時代、などとまことしやかに言われるようになった。政府にそんな会議まで出来ている。

実際に100年生きるかどうかはともかく、現実問題としてそれを想定せざるを得ないほど、国民全体の平均寿命が延びているは事実だ。そして、それに伴い、かつてのように長寿が無条件に、手放しで、めでたしめでたしなものでなくなってきたのも確かだ。

共同体の中にごくまれに90歳や100歳の人がいて、寿がれた昔とは事情が違う。今や相当の割合で超高齢者の母集団が存在し、かつ子ども・若者は少ないのだから、先行きに漠然とした不安感が漂うのも無理からぬことだ。将来いい老人ホームに入るためにせっせと蓄財に励むのも一興だが、カネだけで不安が解消されるとも思えない。PPK(ピンピンコロリ)が理想といっても、こうすればそうなれる、という約束された方法もない。“不老”長寿なら問題なかろうが、実際には“老”長寿だから、未曽有の「老いた人/老いゆく人」のボリューム感に、個人も社会も意識と対応がついていかず、世の論調も悲観と楽観の両極を揺れ動いているように見える。

齢を重ねるにつれて、病気や、老いや、死への備えを意識せざるを得なくなる。しかも、現実としての死はいつ訪れるか分からないから、いったいどんな想定で、何を、どのように、どのぐらい備えればいいのか、究極的には分からない。人によって考え方は分かれるところだと思うが、自分としては、国家百年の計ならぬ個人百年の計、「自分百年の計」を立てようと思い至った。100年スパンで見るならば、ただ今、人生の正午ジャスト。この年を、「これからの50年の基盤をつくる元年」にしようと決め込んだのだ。

確実に、体はエイジングしている。若い時のように、何もしなくても何となく元気…というような希望的観測のもとに生きているわけではない。要介護生活の現実も目の当たりにしてきた。さりとて、日々最善を尽くし悔いなく生きているかといえば、全くダメダメである(汗)。やりたいと思いながら未だ手つかずのことも多く、自分のダメっぷりにジリジリとした焦燥感しきり。正直、ここ数ヶ月かなりdepressedな日々を過ごしてきた。

そんな中で、ふと、「人生100年」の言葉が腑に落ちた。今の自分の視座から「100年を生きぬく」ために、「今日できること」は、「今日をよりよく生きること」へと繋がるような気がしたのだ。

これからの50年は、確実に「老い」の道程を歩いていく道行きである。100年という時間を、最後まで自立的に喜びをもって生きぬくことは、そう簡単なことではない。運もあるだろうが、努力とビジョンとスキルも必要に違いない。それは、単に生きていく、というよりも、むしろサバイバルである。

かつて、これほどのボリュームで世の中に超高齢者が存在したことはないので、スーパー高齢社会サバイバル術は、未だ確立されていない。過去の経験値に基づいてそれなりの確度で予測でき、社会的に共有できる穏当な近未来像が描けない、というのが、今私たちの置かれている地点なのだと思う。だからこそ、このサバイバルは、冒険でありチャレンジでもあるのだ。

人生100年時代を生き抜く技術

こいつを本気で追求してやろう。
そう腹をくくると、「今この時」が妙に楽しくなってきた。

そんなことを思いつつ、ようやく届いた『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』のページをパラパラとめくる、2018年の小正月でありました。

今年もどうぞよろしくお願いします。

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