2010-01-31

あらためて2010年の目標

気がつけば、明日から2月。立春を過ぎれば、本格的に旧年が去っていく気がします。年頭に書いた抱負よりも少~しばかり具体的に、今年の目標を書きます。

1.本と資料の整理―2006年夏の家の建替え以来、未整理のまま放置しています。棚卸しの意味も込めて、今年こそ超・整理!

2.アートセラピーとアートエデュケーションに関するプロジェクトの立ち上げ―アートセラピストの知人と協働で構想中のプロジェクト。まずはセラピストや教育者を対象にしたワークショップ企画から始めていこうと話を進めています。

3.子どもの絵に関する書籍の翻訳・出版―これも上の知人との協働プロジェクト。目下出版社探しの段階ですが、何とか形に!

4.発信力の強化―具体的には、2002年に立ち上げたNPOのPRを強化し、知名度を上げる。個人としても発信力を高めたいです。

5.ライフワークとライスワークの融合―今までもずっと課題でしたが、今年はこの命題に関し、腹をくくる年になりそうです。すぐに実現することではないだけに、日々の心構えや行動の積み重ねがものを言う。今まで中途半端にしてきたことを、本気でやるのか、ケリをつけるのか。本気の決断の時期です。

それから、ちょこっと深追いしてみたいネタをいくつか。

1.小津安二郎のオモシロさ―小津の映画は「笑える」。何となく、美しい日本の心、というようなイメージ捉えられている感のある小津映画ですが…。私にとって小津は、最高に笑える世界。そのオモシロさを深追いしてみたいと思っています。

2.須賀敦子と関西―いわずと知れたイタリア文学者の須賀敦子さんですが、生まれ育ちは兵庫県西宮市です。彼女と関西の関わりに関心があります。再読も含めて、須賀敦子×関西を深追いしてみます。

3.過去のアートワーク作品の考察―これまでワークショップや個人セッションで制作してきた自分のアートワークを整理し、振り返り、これからの道行きを見定める指標にしたいと思います。

2010-01-27

西洋美術のナゾ―裸体表現をめぐる旅

本日、NPO法人シニア自然大学校主催のシニアCITYカレッジにて、西洋美術についてのレクチャーをしてきました。同NPOが大阪教育大学との協働により、シニアの方々を対象に開講している連続講座で、環境問題や時事問題から歴史・文化・芸術まで幅広い領域をカバーしています。昨年に続いて3回目の出講でしたが、50数名の受講者は皆さんひじょうに熱心で、近年の中高年層の知的好奇心、学習意欲の高さを実感します。レクチャー2時間+ディスカッション2時間=合計4時間の長丁場ですが、反応もよく、議論も活発な場の空気には、まったく疲れを感じません。

今回のテーマは、裸体画(nude)。裸体表現は西洋美術の基本であり、西洋美術に影響を受けた今日の美術において、裸体デッサンは画家の基本的トレーニングです。しかし、、、ごくごく素直な目で西洋美術の一群を眺めたとき、その裸体表現の多さには素朴な「?」もわいてくるのではないでしょうか。西洋美術を見慣れた現代人は、そういうものだ、と思っているかもしれません。それでも、マネの<草上の昼食>を生まれて初めて見るときの衝撃は、本作発表当時(1863年)の人々とそんなに変わらないのではないでしょうか。(実際、私が小学生のころ初めて画集でこの絵を見たときは、一体なんちゅー絵!?と、えらくビックリしたものです。)ドラクロワの<民衆を率いる自由の女神>が、あの緊迫した事態の中で一人胸をはだけているのも、考えてみればフシギです。事実、西洋美術に初めて本格的に取り組んだ近代日本の画家にとって、裸体表現をどのように自分たちのものにするかは、芸術上の大きな課題でした。


現実のシーンとしては想定しがたい、こうした裸体表現の数々。なぜこれらの人物は裸体なのか?同じ裸体画でも、絶賛された作品と非難轟々だった作品と、 何がどう違うのか?そんな西洋美術の根幹をなす裸体表現を、古代ギリシアのクーロス、コレー像から近現代まで俯瞰するという時間軸の長~い内容。しかも最初プロジェクターが不調で満足に画像も見られなかったのですが、皆さんたいへん興味をもって聞いてくださり、グループ・ディスカッションでも多彩な意見が飛び交いました。受講者の皆様の西洋美術への親しみが増し、見る楽しみ・喜びが深まったならば本望です。

2010-01-04

スターバックスはイタリア生まれ!?

シアトルが世界に誇るコーヒーショップ・チェーン、スターバックス。もともとコーヒー豆の卸売をしていたスターバックス社を今日のような世界的チェーンにしたのは、現CEOハワード・シュルツ氏の功績ですが、そのシュルツ氏が今のようなコーヒーショップのスタイルを思い立った原点は、イタリアのバール体験だったそうです(→参考 Pdf)。そう、スタンディング・バーで、あるいはオープン・スペースのテーブル席で、カフェやアルコールを味わい、コミュニケーションを楽しむ、あのバール。イタリアの町になくてはならない、あのバールです。そのカルチャーに感銘を受けたシュルツ氏は、ぜひこんな店をアメリカでも開きたいと考えたそう。早速スターバックス社に掛け合うも、最初は取り合ってもらえなかったとか。その後しばらくして売りに出されたスターバックス社をシュルツ氏が買い取り、卸からコーヒーショップへと業態転換し、イタリアのバールのような、地域のうるおい空間として、コーヒーショップを展開していったそうです。

昨年12月、スターバックス コーヒー ジャパンCEO岩田松雄氏の講演会で聞いたお話。岩田氏は私の出身高校の卒業生で、この講演会は、各界で活躍する卒業生を呼んでお話を聞くトークリレーの一つでした。岩田氏は日産自動車を振り出しに転身を重ねられ、タカラやボディショップなどを経て2009年6月から現職、本当にキャリアアップの鑑のような方ですが、話しぶりもお人柄もとても気さくで、気負ったところがなく、自然でさりげないのに刺激的なトークでした。リーディングパーソンが自分の歩んできた道を、思春期にまでさかのぼって語るのを聞く機会はなかなかありませんから、貴重なひと時でした。

話をスタバに戻すと、私が高校の英語教師をしていたころ、シアトル出身の同僚がよく“I miss Starbucks coffee.”とつぶやいていました。当時は日本進出して間もない頃で、東京にチラホラ、関西には店舗はほとんどなかったのです。その後破竹の勢いで増え始め、10年も経たないうちに至るところスタバを見かけるようになりました。スタバというと、生徒たちに出身地シアトルの紹介をするたび Starbucks と Microsoft を挙げていた彼女を思い出します。

ふーむ、Starbucks ってそんな旨いのか、イタリアのコーヒーより旨いのだろうか、と思っていたら、一方でアメリカ在住経験のある人からは、Starbucks がなぜアメリカであれほど受けたか、それは従来のアメリカのコーヒーがあまりにもヒドかったからだ、というような話を聞いたこともあります。それまでアメリカでコーヒーといえば、淹れてから何十分も放置され、煮詰まったものが普通だったところに、挽きたて、淹れたてのコーヒーを出す Starbukcs が現れ、アッという間にグルメコーヒーとして広まった、と。ならば、独自の焙煎やドリップに凝る職人肌のマスターが黙々とやっている喫茶店の伝統がある日本では、それほどのインパクトはないかなと思っていたら、あれよあれよという間に広まっていきました。私自身はそれほどスタバを利用しないのですが、コーヒー一杯で友人とちょっと長話したいときなど^_^;重宝しています。

ちなみに、件の講演で提示された資料に、世界各国のスタバ店舗数のデータがありましたが、上位20カ国ほどの中にイタリアとフランスは見当たりませんでした。やはり、もとから旨~いコーヒーのある国では、スタバもあまり需要がないということでしょうか。スタバの経営理念や経営方針は立派だと思いますが、もしイタリアのバールがスタバに駆逐されてしまったとしたら…それはちょっと考えたくないシチュエーションです。これからも、スタバはスタバの、バールはバールの、それぞれの道を歩いていってほしいものです。

2010-01-01

枠をはずす―新年によせて

明けましておめでとうございます。2010年が始まりましたね。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。実は私は一日早く、12月31日に相方の実家で年賀の宴を済ませました。義姉夫妻の仕事の関係で1日に集合できないため、皆のスケジュールが会う31日の昼から忘年会、夕方から新年会、という具合。去年のも一昨年もこのパターンで、今やすっかり1日前倒しのお正月に慣れてしまいました。何とはなしに1日トクした気分で、今日はごく静かに過ごしております。

さて、今年のテーマは、「枠をはずす」と決めました。「枠」というのは、知らず知らずのうちに持っている思い込みやカベ、境界のようなものです。「自分という枠」といっていいかもしれません。自分をしっかり持つというのはとても大事なことなのですが、あまりにも「自分」に意識が向きすぎるのも何だか窮屈だなあ、と。そして、「ああ、はずしたいな」と。年末に、グループであるアートワークをやっていたときに、ふとそんな思いに駆られました。「超える」とか「こわす」というのではなく、「はずす」「はずれる」という感じ。あまりうまくいえないのですが、自分の限界を超えるとか、古い自分を壊して新しい自分を開くとか、そういう、いかにも意志的で、暑苦しい(!?)作用ではなく、はずれるべきものをはずす、自然にはがれるような感じ。毛が生え変わったり、脱皮したり、今までは確かに必要であったものが、今は必要なくなって自分の身からはずれていく。そんなふうに、自然のサイクルの一環として、今までの自分の殻がポロリとはがれる―そんなイメージが浮かんだのです。そして、それが妙に心から離れず、そうだ、2010年のテーマにしよう、と決めました。

具体的には、あまり「自分」のことを考えない、なるべく「自分」という存在を忘れている、そんな心持ちで過ごすということです。私は基本的にかなり「自分」追求型の人間で、今までこんなふうに思ったことはありませんでした。いかに「自分」をしっかりと持ち、「自分」で物事を決め、「自分」で行うか(うーん、暑苦しいですねぇ…笑)。意識せずとも、つねにそれがテーマだったように思います。もっとも、何をどうやっても自分は自分でしかない、とも言えるでしょうが、少なくとも「自分」(かっこ付きの自分)には、もうオサラバだな。これが実感でした。その先に、今までと違った自分のあり方が立ち現れてくるのかもしれないし、そんなものはないのかもしれない。けれど、「自分」意識が(人一倍)強かった私に訪れた、この心的変化は、私にとってちょっと不思議であり、だからこそ見逃せないものです。何年かぶりで訪れた内側からの心的変化に、忠実に沿うて生きたいと思っています。

以上、抽象的な表現ではありますが、2010年の所信表明でした。今年もどうぞよろしくお願いします。皆々様のご健康とご多幸を心よりお祈り申しあげます。