2018-09-06

池田の猪買い!?ー大阪府北部地震ふりかえりの記

昨日の台風21号体験ふりかえりに続き、3か月前の大阪府北部地震ふりかえりをアップしようとしたら、北海道で地震の速報。詳しい状況は分かりませんが、ともかく少しでも被害が少ないこと、そして一日も早い復旧を願います。

さて、すでに3か月近く前のことになったが、6月18日の大阪府北部地震での体験。

週明け早々の通勤途上に地震発生、脱線するかと思うような揺れ(左右と上方向に大きく2~3度?)のあと緊急停止。と同時に、スマホや車内放送で地震発生の報。そのまま待機すること約3時間、最終的に線路を歩いて最寄駅まで歩いて行った。規模は違うものの、阪神淡路大震災を知る身にも怖い揺れだった。

乗っていた列車が止まったのは阪急の十三と三国の間、新幹線と立体交差するあたりで、十三駅まであと少しの地点だった。なので、電鉄側のオペレーションとしては、何とか十三駅のホームまで車両を移動させたかったようだが、結局先行列車の車両を動かせず、乗客全員その場で降りて駅まで線路の上を歩くことになった。

それならいっそもうちょい早く降ろしてほしかった…と言いたい気持ちもないではなかったが、だが、これは想定の範囲内。文句をいう人もおらず、むしろ、ようやく外に出られる…という安堵感が広がった。停車地点が(鉄橋や高架線上でなく)地上だったので、缶詰めになっていた間も恐怖感が少なかったのは不幸中の幸い。大きな混乱もなくスムーズに降車が完了した。

そして、無事だったからこそ言えることではあるのだが、平常時には知る由もないレア体験ができたのも、ある意味で貴重な経験であった。

ネットでも話題になっていたようなだが、これは阪急電車のシートが緊急脱出用のスロープになったもの。


通勤、通学でかれこれ30数年間、阪急電車を使い続けているが、無論こんな光景を見たのは初めてだし、シートがこんなふうになるということを知ったのも初めて、さらに線路の上を歩いたのも初めてである。戦争体験はないが、ゾロゾロと線路の上を歩く様はどこか行軍のようでもあり、映画「戦場にかける橋」を思い出したりもした。

さて、3時間に及んだ車中缶詰体験で困ったのは、トイレ。特に女性は深刻。さすがに限界が近づいてくる…近くにちょうど草むらがあったので、男性は車両を降りて用を足していた。女性も、最終手段としては傘などで目隠しして草むらで用を足す…しかない。(実際そういうケースもあった。車掌さんが女性だったので、親切にサポートされていた。立派!)いよいよ限界が来たら、みんなで円陣を作って目隠しして、代わりばんこに用を足そうか!?…というような話も出た(女性専用車両だったので)。実際問題として長距離列車でもない車両にアレコレと設備は増やせないし、搭載できる設備にも限りはあろうが、非常時のためにコンパクトな簡易トイレ(いや、目隠しになるようなテント、シートでも?)あれば有り難いな~というのが、一乗客の素朴な願いである。

かれこれ15年以上も前のことだが、台風のため立ち往生した新幹線車中で14時間缶詰め体験もしたことがある。あの時の体験は、「新幹線(長距離列車)には、とにかく水と食物を持って乗る」という教訓として生きている。昼食や夕食の弁当を食べる以外、普通はあまり車中で飲食しないのだが、時間帯にかかわらず、また空腹か否かにかかわらず、こういう時のために水分と食糧を持っておくよう心がけている。

電車は交通手段の中でも、もっとも安全性の高い乗り物なので、普段ほとんど危険に遭遇することを想定しない。しかし、やはり天災、そして時に人災とも無縁ではないことを改めて認識する機会となった。毎日毎日、当たり前のように時間どおりに出かけて、時間どおりに目的地へ着き、何事もなくまた家に帰ってくるということ自体、実は奇跡みたいなものかもしれない。

して、池田の猪買い(いけだのししかい)とは?

この体験を当日SNSに書き込んだら、私の歩いて帰ったルートがまさに「池田の猪買いやね」というコメント。

ーなるほど!そうか。昔の人は当然のごとく歩いていた距離やな。

池田の猪買いとは、体が冷えて困っている男が、冷えに効くという新鮮な猪の肉を求めて、丼池(どぶいけ/大阪市中央区)から北摂池田(大阪府池田市)まで歩いていく、その道行きをネタにした古典落語。私が実際に歩いたのは、その半分ほどの距離かと思うが、いざとなれば池田の猪買いぐらいの距離は、四の五の言わずに歩ける体力脚力をつけておきたい、と思ったのである。

同時に、足が少々不自由な父があの電車に乗っていたら…ということも考えた。車中数時間の待機、脱出(降車)、線路上の歩行…かなり困難をきたしたことだろう。体に不自由がある人の外出・移動についても再考を迫られる体験であった。

台風による停電体験といい、生活の中に潜むリスク、そして日々を生きる心構えについて、今年は期せずして考える機会を与えられている。人生下半期、いや増すリスクをどうコントロールするか大きな課題。病気、老化、災害…生きるために考え、備えていきたい。

【参考リンク】
Wikipedia「池田の猪買い」
落語散歩「池田の猪買い」
YouTube 桂枝雀「池田の猪買い」

◼️2018年10月8日追記

先日、友人とごく打ち解けた話をしていて思い出したのだが、この体験に関して、困惑した、というか、少々不快な思いをしたことがある。それは意図せざる被写体となる心地悪さである。

いつもは走り抜けていく電車が線路上にずっと停まっているというもの珍しさからだろうか、道行く人の中にスマホやケータイで電車を撮影する人たちがいた。線路と道路はかなり距離があったのだが、無邪気な撮影者の姿は車中に缶詰めになった我々からハッキリと見えた。

次の瞬間、窓際の乗客は次々とブラインドを引き上げた。遠くから窓ごしに撮られるので、顔はぼやけて判別できないかもしれない。おそらくそうだっただろう。しかし、問題はそういうことではない。身動きが取れず相手に何も言えない状態で、何の断りもなく一方的に撮られることの不快感である。さらにそれは、SNSなどにアップされ、不特定多数の人に見られるかもしれない…たとえそこに特定できるような状態で顔かたちが写っていなかったとしても、現代のテクノロジーをもってすれば、どこからどんな風に自分のプライバシーが漏れ出し、思いもかけない転用(悪用)をされるかもしれない。。。そういう漠然とした不快感と不安感を、(窓から外を見ていた)乗客の誰もが感じ取ったに違いなかった。

無論、撮る側に悪気はカケラもなかっただろう。同時に、撮られる側の感情やプライバシーへの配慮もまた、ほとんどなかったと思われる。

誰もが簡単に情報発信のできる現代のあり方を否定する気は毛頭ない。実際、ニュース映像でも視聴者の投稿による動画は当たり前になり、それが事実や真実を広く知らしめることもある。

しかし、そこに「一方的に撮られる側」の他者がいるとき、それがたとえば満員電車の乗客といったような不特定多数のマスであっても、やはり一抹の配慮は必要なのではないだろうか。

自力でコントロールできない不本意な状況下での、同意なき被写体体験。今回のエピソードは、それ自体は強いて目くじらをたてるほどのことではないかもしれない。しかし、決して気持ちの良いものではない、この「ちょっとした」体験に、一億総発信社会の盲点を見た気がする。

街中で珍しい光景に遭遇したとき、好奇心からカメラを向けたくなったとき、そこに人がいるとき、ほんの一瞬手を止めて撮られる側の人のことを考えよう。無事缶詰め列車から解放されて、線路を歩きながら、そんなことを考えたのだった。

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