2017-12-13

「中年」考

私は「中年」である。

「中年」―この、いかにもくたびれた「中古」感満載のワード、近年あまり受けがよろしくない。

現代のシニアは、男女問わず元気いっぱい。かつて紛うかたなき「オバサン」だった40~50代女性も「美魔女」モード全盛の昨今、総じてキレイで若々しい。初老にさしかかり、定年退職や子の独立を控えて、しみじみとペーソスの漂う中年像(たとえば小津安二郎の映画に出てくるような?)は、すっかり過去のものになったようだ。

しかし。

世の中が全力で「老い」というものを隠ぺいしようとしているかにみえる今、あえて「中年」という言葉から、人生のこの時期について考えてみたくなった。

今やかつてのような敬老文化はすたれ、単に歳食っただけでは尊敬どころか、お荷物扱いされかねない時代。
一方で、90~100歳のスーパー長寿も珍しくなくなり、それにくらべれば中年ごときはハナタレ小僧。

若さでは勝負できない。
年の功をウリにもできない。

40代後半~50代ぐらいの、いわゆる「ザ・中年」は、何とも中途半端な時期なのである。

「中世」が古代と近代の「間」にあって、長らくその独自の価値を認められてこなかったように、「中年」もまた若年と老年の「間」にあって、自律的な自己規定が難しい時期なのかもしれない。

単に歳月を重ねただけでは、自慢にもならない。過去の蓄積だけを切り売りして生き延びる姿は、イタい勘違いになりかねない。チャレンジャーたることを求められるが、創造的破壊力と前進力の点では才能ある20~30代に及ばない。
かといって、「もうトシだから」と隠居モードにシフトすることも許されない。見上げれば、まだまだ元気な高齢者、超高齢者がワンサカなのだ。

かつて「中年」は、おそらく「老年」の入り口であった。さまざまな社会的役割から少しずつ後退し、次の世代に譲りながら、人生の歩みをスローダウンしていく過程であったのではないかと思う。ライフスタイルや考え方には個人差があるから、一概にはいえないが、少なくとも「世間」が規定する一般的な中年のイメージは、若人よりは老人のそれに近いものであっただろう。

こんにち、「中年」のイメージは大きく変わった。少なくとも外見上、中年期以降のあらゆる年代の人が、昔より確実に若い。行動様式も然り。昔のように「隠居モード」になれないのは、個人の志向と、平均寿命が長くなったゆえの社会的要請の両面があるだろう。

論語には「不惑」「知命」というけれど、目の前にはなお幾多の分岐があり、どの道を行くかでこれから先が変わる局面も多い。しかもその選択は、若い時のような、甘美な無知と幻想に彩られながらも、否それゆえに「なんかワクワク♡」といったような、フンワリした上昇気流気分の選択ではなく、来るべき未来(自分としての終局点)を見すえた上での決断・選択にならざるを得ない。

つまりは、本当に中身が問われる時期だと思うのである。

成熟・円熟と、単なる老化・劣化の違い。

最近よくそんなことを考える。

 ・・・と、こんなことを考えること自体が、midlife crisis(中年の危機)なのか?!

とツッコミを入れたくもなるが(たぶん、そう)、要は世界の見え方が変わってきたということなのだろう。

親の老いは、否応なく自分の行く末を考える一つのモノサシとなる。「まだ若い」と「もう若くない」の中間地点にいる自分と、「もう若くない」エリアにいる親の現在から見とおす自分の未来予想図。それはいつもバラ色とばかりは限らず、突き詰めていくとユウウツになりもする。

しかし、ある意味では、今まで見えていなかった地点から、人生を眺めることができているということなのかもしれない。そして、その時まで生きてこられたということ自体が、実は貴重な体験なのかもしれない。

なにやら抹香臭い予定調和的な締めに流れつつあるが、わが中年ロードはこれからも続く。

「中」の文字は、「中心」「中央」といった意味から、「(上でも下でもない、大でも小でもない)中ぐらい」「中間」といった意味まで、いろいろな含みがある。なかなか深いではないか。いろんな意味で人生の「真ん中」であり、「中間期」である中年。思考と人間性に深みを増すか、ただ経年劣化していくか。大いなる分岐点。人生の骨格を組みなおすときかもしれない。

ビバ 「中年」!

これからあえて「中年」というコトバにこだわりつつ、「中年道」を究めてみようかと思っている。

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