2017-10-25

ハイジ考

昨年、CSで深夜に連続放映されていた「アルプスの少女ハイジ」を全話視聴した。自分の世代には大変懐かしい、あのカルピス劇場である。子どもの頃にも全編見たはずだが、大人になった今だからこその発見が多く、このアニメの奥深さに驚いた。たまたま第1話を見たことから病みつきになり、寝不足を気にしながら連日連夜イッキ見してしまった。

端的に言えば、この物語の中に「自然」と「文明」のせめぎ合い、そして「子ども」の人間形成についての作者(あるいはアニメ制作者)の思想、という一貫した大きな底流を見たのである。

全編見終った後は無性に原作が読みたくなり、原作(翻訳)を購入。しかし、まずはあえて原作を読まずに、アニメだけを見た気づきと感想を書き留めておきたい。それからあらためて原作を読み、それらが原作に依拠するものか、アニメ独自の解釈によるものかを検証したいと思う。

発見1.ペーターは働く少年だった

 第1話を見るなりハッとしたのが、このことである。しかも、すごい重労働。10歳かそこらの少年が村じゅうの山羊を集めて、毎日一人で山を登り降りしているのだから。

 アニメでもそのことをさりげなくにおわせている。ハイジと一緒に山に登り、ハイジはハイテンションではしゃいでいるが、ペーターは草の上に寝転がるなり眠ってしまう。そこへ、「無理もありません、それだけ大変な仕事をしているのです」というナレーション。

 ペーターは山羊飼いだから働いているのは当然なのだが、子どもだった自分(たしか小1)には「労働する子ども」としての側面は全く見えていなかった。「家のお手伝い」程度でなく、あれだけの責任を負って働いていたということに、今さらながらに驚愕。

―そうか、ハイジのボーイフレンドというだけじゃなかったのだな・・・。

 「少年」ペーターに課せられた大人並みの役割と責任の重さを再認識した次第。

発見2.ロッテンマイヤーさんはいい人だった

 もう一つの大発見が、これ。木で鼻をくくったような融通の利かなさ、過剰なまでの厳格さ、そして動物を見ては「ケダモノ~」といって卒倒するオーバーアクションで、子どもの目には「意地悪な人≒悪い人」のカテゴリーに入っていたロッテンマイヤーさん。話が進むにつれてじわじわと、大人eyeで見てもっともイメージが変わったのがこの人だったのだ。

 まず、自然や動物に対するあのような反応は、当時の教養ある都会人の間では一般的な考え方であっただろうということ。したがって、自然のままに育った無教育な野生児(とロッテンマイヤーの目には映ったに違いない)ハイジに対する彼女の態度もまた、特別に不可解なものではない。否、むしろ名家の令嬢の教育係という彼女の立場を考えると、至極当然のものであろうということだ。

 人間でも自然でも、「あるがままに」というあり方に肯定的な価値が見出されるのは、ヨーロッパではせいぜい18世紀以降のことである。とりわけアルプスのようなとてつもない大自然は、人が容易に近づけるところではないだけに、恐ろしく、得体が知れず、おぞましくさえある存在であった。大自然と共生するエコロジカルなライフスタイルは、現代でこそ尊ばれるものの、当時は「野蛮」や「未開」と紙一重の奇矯なものだったわけで、文明の象徴のごとき大都市フランクフルトで、街いちばんの名家の令嬢の教育を一手に引き受けているロッテンマイヤーさんとしては、決して容認できるものではないのは想像に難くない。クララを名家の令嬢として相応しい女性に教育しなければという責任感はもちろんのこと、その相手を務めるハイジをもクララに相応しい子として躾けなければ、とシャカリキになるのも無理からぬことなのである。

 そのロッテンマイヤーさんのセリフにたびたび登場するのが、「何かあったら誰が責任を取るんです!?」というひと言。大人になった今となっては、この言葉に込められた意味合いや背景もまた、十分すぎるほどリアルに想像がつく。
 クララはフランクフルトきっての名家ゼーゼマン家の一人娘で、母はすでに亡く、父は多忙でほとんど家にいない。つまり、身近に彼女を躾けたり愛情を注いでくれる肉親がいないうえに、病弱な少女を、名家の名に恥じない教養と品格をもった一人前の女性に育て上げるという重責を、ロッテンマイヤーさんは背負っているのである。

 父親のゼーゼマン氏はなかなかの人格者だが、ロッテンマイヤーさんが何かあれば責任を問われてクビを切られる身分であることに変わりはない。慎重になりすぎて何でもかんでも禁止しがちな彼女の姿は、現代の大人と比べても特に異常なものではないと言える。

 さらに、ロッテンマイヤーさん、実は彼女なりにクララのことを思い、愛しているのだ。ハイジと仲良くなるにつれ、だんだん気が強くなり、ロッテンマイヤーさんにも反抗するようになるクララ。そのクララがどうしてもやりたいと主張することに対して、最後は聞き入れてあげるのだ。近郊の森へピクニックに行くことも、ついにはアルプスへ行くことも、最初は強固に反対するが、結局はロッテンマイヤーさんが譲歩する形で実現するのである。
 最終話では、フランクフルトの家で懸命に歩行練習に励むクララに付き添い、「ずいぶん上達なさいました。これならアルムの山へもおいでになれます」と励ます。ああ、ロッテンマイヤーさん、クララを愛してるのね?と実感したエピソードだった。

発見3.子どもはどう育つべきか―子どもの人格形成に関する二つの思想

 アルプスの大自然に抱かれて育った自然児ハイジと、文明化された大都市フランクフルトで上流階級の女性として養育されるクララ。ヨーロッパ人が理想としてきた人間のあり方は、むろん後者だ。自然のままに、躾らしい躾も受けず、学校にも行っていないハイジは、いわば人間が住むべき世界の周縁に生きる存在。しかも、ハイジが暮らしているのは、アルプスの村人たちにさえ「あんな山の上に住んで…」と変人扱いされているアルムおんじの家。ハイジをおんじに預け、フランクフルトへ働きに出たデーテおばさん(ハイジの叔母)が、こんな田舎でなくフランクフルトで働けて嬉しい、ハイジもここで教育を受けさせたい、と考えているのとは正反対に、確信犯的に共同体に背を向けて生きるおんじの姿は、当時の田舎の人々の感覚からしても、かなりヘンコな、常識はずれのものだったのである。

 正反対の生育歴をもつハイジとクララが出会い、バックグラウンドの違いを超えて友情を育み、互いの世界に歩み寄りつつ、成長していく。彼女らにかかわる周囲の大人たちもまた、ぶつかり合いながら少しずつ変化し、相反する価値観が互いに歩み寄っていく。ハイジとクララという二人のキャラクターに仮託されたのは、子どもの人格形成に関する異なる二つの考え方なのである。

作者のヨハンナ・シュピーリはどう考えていたのか。おそらく、その両者の統合を志向していたのだろうと思う。そのへんのところを、原作を読んで探ってみたい。

0 件のコメント: