2017-10-21

わがネット生活をふりかえる

気がつけば、電子メールやインターネットを使い始めて20年ほどになる。

正確に(西暦)何年から使い始めたか、もはや分からないが、初めてPCを買ったのが大学院修士課程のころだったと思う。それから2~3年して電子メールやらパソコン通信やら始めたのではなかっただろうか。

初めてのPCは、Macintosh LC630。当時、ずいぶん安くなったとはいえ、今と比べればパソコンはまだまだ高く、リーズナブルなLC(=Low Cost)でも、モニターやキーボード、プリンタなどの周辺機器を合わせると、値引き後価格でも30万円ぐらいした。定収入なく低収入な学生には、大きい出費だった。それでもパソコンを入手したときは無邪気に嬉しく、暇さえあれば意味もなくいじって遊んでいた。あのころまだパソコンは、自分にとって「遊び」のツールだった。

ほどなくして友人から、「電子メールやれば?」という誘いをたびたびもらうようになった。

うぬ?電子メール?
よう分からんが、面倒くさいんちゃうんかなー・・・
月々の通信費も嵩みそうやしなー・・・

てな感じで、しばらく放置していたように思う。

ようやくモデム(ピープルプルのアナログ回線)を買って、ネットワールドに繋がってみると、そこからパソコン通信(レトロスペクティブ!)の輪にハマり、やがて自分でホームページを作るようになり、いろんな掲示板で共通の趣味の人と知り合い、時にはオフ会もして・・・

当時、イタリアへ行きたくて(今も行きたい)、毎年のようにイタリアへ行っており、できれば移住したいとまで思っていて、その思いから旅のホームページをつくり、「アモーレ・イタリア」を共通項に、ネットを介していろいろな人と知り合った。

考えてみると、ネット生活黎明期のあの頃が、自分史上もっともオンラインにおいてアクティブだったと思う。ちょうど安定した仕事を辞めて次の道を模索していた頃で、時間があり、漂泊気分いっぱい。リアルではやや引きこもりっぽいライフスタイルでもあり、ネットでの繋がりに支えられていた部分もあった。

その後、新しい仕事を始めてオフラインが忙しくなると、それに反比例してオンラインに割く時間と労力は低減。ホームページの更新もジリ貧に。職場にもPCが普及し、パソコンはもはや愉しき玩具ではなく、単なる仕事道具となり、休みの日にまであえて見たくはないシロモノになっていった。

その後ブログが主流になり、SNSが登場し、通信費は定額制でどんどん安くなり、メモリー容量もMBからGB、TBへと幾何級数的に増大し、タブレットやスマホの登場で、少なくとも通信目的でPC端末にアクセスする割合はずいぶん減った。

大学時代までは遠方の友達とも「手紙」でやりとりしていたが、今や「手紙」、特に「手書き」の手紙を書くことは本当に少なくなった。(ほぼ皆無に等しい。)将来有名人になっても、往復書簡などというハイブロウな知的遺産は残らないだろう(笑)。

メールでもずいぶん(自分なりには)深イイやりとりをしたと思うが、アプリケーションが変わったり、記録媒体が変わったりで、仮に保存していても今では読み出せなくなっているものが多い。サイバー空間のどこかにデータは残存しているかもしれないが、少なくとも手元に、いつでも参照できる形では残っていない。

その点、紙はスゴイと、最近あらためて思う。

保存状態さえ良ければ千年、2千年もつし、それが現存する限り、いつの時代になっても同じ形で参照できる。メディアの盛衰に合わせて記録媒体を移し変える必要はない。

本にしても、電子ブックリーダーも持っているが、なかなか紙の本の完全な代替にはならない。電子辞書も然り。単に世代の問題もあるだろうが、本はやはり紙の本のほうが読みやすい。(ページをめくる時にラグがないことが大きい。)

場所を取ることと、焼失のリスクを除けば、紙の発明は今なおデジタルメディアに勝る人類の発明ではないかと思ってしまう。ペーパーレス化は進むだろうが、全くなくなることはないのではないか。(将来的にはさらにsuperなメディアが出てきて、紙を駆逐することもあるかもしれないが。)

そして、ここに至って「紙に手書きする」ことの味わいをしみじみ感じるようになってきた。仕事の文書作成は、もはやPCなしにはできなくなってしまったが、最近また日記をつけるようになり、ブログやツイッターとは違う、内面と直結した思考や感情の吐き出しには手書きの方が断然勝っていることを実感している。

ネット生活をふりかえっていたら、ペーパー礼賛に着地した。
めっきり使わなくなった万年筆などもリバイバルしそうな今日この頃である。

その文章を、PCで書いて、ネットに上げている。

That's 現代.

駄文御免。

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