2018-09-06

池田の猪買い!?ー大阪府北部地震ふりかえりの記

昨日の台風21号体験ふりかえりに続き、3か月前の大阪府北部地震ふりかえりをアップしようとしたら、北海道で地震の速報。詳しい状況は分かりませんが、ともかく少しでも被害が少ないこと、そして一日も早い復旧を願います。

さて、すでに3か月近く前のことになったが、6月18日の大阪府北部地震での体験。

週明け早々の通勤途上に地震発生、脱線するかと思うような揺れ(左右と上方向に大きく2~3度?)のあと緊急停止。と同時に、スマホや車内放送で地震発生の報。そのまま待機すること約3時間、最終的に線路を歩いて最寄駅まで歩いて行った。規模は違うものの、阪神淡路大震災を知る身にも怖い揺れだった。

乗っていた列車が止まったのは阪急の十三と三国の間、新幹線と立体交差するあたりで、十三駅まであと少しの地点だった。なので、電鉄側のオペレーションとしては、何とか十三駅のホームまで車両を移動させたかったようだが、結局先行列車の車両を動かせず、乗客全員その場で降りて駅まで線路の上を歩くことになった。

それならいっそもうちょい早く降ろしてほしかった…と言いたい気持ちもないではなかったが、だが、これは想定の範囲内。文句をいう人もおらず、むしろ、ようやく外に出られる…という安堵感が広がった。停車地点が(鉄橋や高架線上でなく)地上だったので、缶詰めになっていた間も恐怖感が少なかったのは不幸中の幸い。大きな混乱もなくスムーズに降車が完了した。

そして、無事だったからこそ言えることではあるのだが、平常時には知る由もないレア体験ができたのも、ある意味で貴重な経験であった。

ネットでも話題になっていたようなだが、これは阪急電車のシートが緊急脱出用のスロープになったもの。


通勤、通学でかれこれ30数年間、阪急電車を使い続けているが、無論こんな光景を見たのは初めてだし、シートがこんなふうになるということを知ったのも初めて、さらに線路の上を歩いたのも初めてである。戦争体験はないが、ゾロゾロと線路の上を歩く様はどこか行軍のようでもあり、映画「戦場にかける橋」を思い出したりもした。

さて、3時間に及んだ車中缶詰体験で困ったのは、トイレ。特に女性は深刻。さすがに限界が近づいてくる…近くにちょうど草むらがあったので、男性は車両を降りて用を足していた。女性も、最終手段としては傘などで目隠しして草むらで用を足す…しかない。(実際そういうケースもあった。車掌さんが女性だったので、親切にサポートされていた。立派!)いよいよ限界が来たら、みんなで円陣を作って目隠しして、代わりばんこに用を足そうか!?…というような話も出た(女性専用車両だったので)。実際問題として長距離列車でもない車両にアレコレと設備は増やせないし、搭載できる設備にも限りはあろうが、非常時のためにコンパクトな簡易トイレ(いや、目隠しになるようなテント、シートでも?)あれば有り難いな~というのが、一乗客の素朴な願いである。

かれこれ15年以上も前のことだが、台風のため立ち往生した新幹線車中で14時間缶詰め体験もしたことがある。あの時の体験は、「新幹線(長距離列車)には、とにかく水と食物を持って乗る」という教訓として生きている。昼食や夕食の弁当を食べる以外、普通はあまり車中で飲食しないのだが、時間帯にかかわらず、また空腹か否かにかかわらず、こういう時のために水分と食糧を持っておくよう心がけている。

電車は交通手段の中でも、もっとも安全性の高い乗り物なので、普段ほとんど危険に遭遇することを想定しない。しかし、やはり天災、そして時に人災とも無縁ではないことを改めて認識する機会となった。毎日毎日、当たり前のように時間どおりに出かけて、時間どおりに目的地へ着き、何事もなくまた家に帰ってくるということ自体、実は奇跡みたいなものかもしれない。

して、池田の猪買い(いけだのししかい)とは?

この体験を当日SNSに書き込んだら、私の歩いて帰ったルートがまさに「池田の猪買いやね」というコメント。

ーなるほど!そうか。昔の人は当然のごとく歩いていた距離やな。

池田の猪買いとは、体が冷えて困っている男が、冷えに効くという新鮮な猪の肉を求めて、丼池(どぶいけ/大阪市中央区)から北摂池田(大阪府池田市)まで歩いていく、その道行きをネタにした古典落語。私が実際に歩いたのは、その半分ほどの距離かと思うが、いざとなれば池田の猪買いぐらいの距離は、四の五の言わずに歩ける体力脚力をつけておきたい、と思ったのである。

同時に、足が少々不自由な父があの電車に乗っていたら…ということも考えた。車中数時間の待機、脱出(降車)、線路上の歩行…かなり困難をきたしたことだろう。体に不自由がある人の外出・移動についても再考を迫られる体験であった。

台風による停電体験といい、生活の中に潜むリスク、そして日々を生きる心構えについて、今年は期せずして考える機会を与えられている。人生下半期、いや増すリスクをどうコントロールするか大きな課題。病気、老化、災害…生きるために考え、備えていきたい。

【参考リンク】
Wikipedia「池田の猪買い」
落語散歩「池田の猪買い」
YouTube 桂枝雀「池田の猪買い」

◼️2018年10月8日追記

先日、友人とごく打ち解けた話をしていて思い出したのだが、この体験に関して、困惑した、というか、少々不快な思いをしたことがある。それは意図せざる被写体となる心地悪さである。

いつもは走り抜けていく電車が線路上にずっと停まっているというもの珍しさからだろうか、道行く人の中にスマホやケータイで電車を撮影する人たちがいた。線路と道路はかなり距離があったのだが、無邪気な撮影者の姿は車中に缶詰めになった我々からハッキリと見えた。

次の瞬間、窓際の乗客は次々とブラインドを引き上げた。遠くから窓ごしに撮られるので、顔はぼやけて判別できないかもしれない。おそらくそうだっただろう。しかし、問題はそういうことではない。身動きが取れず相手に何も言えない状態で、何の断りもなく一方的に撮られることの不快感である。さらにそれは、SNSなどにアップされ、不特定多数の人に見られるかもしれない…たとえそこに特定できるような状態で顔かたちが写っていなかったとしても、現代のテクノロジーをもってすれば、どこからどんな風に自分のプライバシーが漏れ出し、思いもかけない転用(悪用)をされるかもしれない。。。そういう漠然とした不快感と不安感を、(窓から外を見ていた)乗客の誰もが感じ取ったに違いなかった。

無論、撮る側に悪気はカケラもなかっただろう。同時に、撮られる側の感情やプライバシーへの配慮もまた、ほとんどなかったと思われる。

誰もが簡単に情報発信のできる現代のあり方を否定する気は毛頭ない。実際、ニュース映像でも視聴者の投稿による動画は当たり前になり、それが事実や真実を広く知らしめることもある。

しかし、そこに「一方的に撮られる側」の他者がいるとき、それがたとえば満員電車の乗客といったような不特定多数のマスであっても、やはり一抹の配慮は必要なのではないだろうか。

自力でコントロールできない不本意な状況下での、同意なき被写体体験。今回のエピソードは、それ自体は強いて目くじらをたてるほどのことではないかもしれない。しかし、決して気持ちの良いものではない、この「ちょっとした」体験に、一億総発信社会の盲点を見た気がする。

街中で珍しい光景に遭遇したとき、好奇心からカメラを向けたくなったとき、そこに人がいるとき、ほんの一瞬手を止めて撮られる側の人のことを考えよう。無事缶詰め列車から解放されて、線路を歩きながら、そんなことを考えたのだった。

2018-09-05

防災考―台風21号ふりかえりの記

昨日9月4日の台風21号は、速度が速く滞留時間こそ短かったが、関西一円に甚大な被害を残して通り過ぎた。大阪北部に位置する拙宅の近辺は、木や建物の激しい破損・倒壊はなく、被害は軽かったが、昼過ぎから夜半にかけて停電。夜中(2時~3時頃?)に目を覚ますと既に復旧していたので、正確に何時に復旧したのか分からないが、これほど長時間の停電を経験したのは初めてだった。あらためて個人・家庭レベルでの防災体制の再考を迫られた。

昼過ぎに何度か短い停電があったあと、午後2時20分ごろに停電。そのまま夜になっても復旧せず、町も家も真っ暗。電気が来ないということは、明かりがないだけでなく、テレビもラジオもネットも使えず、情報がほとんど入ってこないことを意味する。唯一の頼みの綱はスマホだが、満充電でなかったため、バッテリー切れを気にして、むやみやたらなネットもできない。発電機やモバイルバッテリーがなく、しっかりした懐中電灯や短波ラジオ、乾電池などの備えも十分でなかったので、ハタと困った。また、当方は給湯が電気なので、風呂にも入れない。

幸い近くに住む妹の家は停電しておらず(同じ町内でウチのある1丁目だけが長時間停電となった)、日没からそちらへ退避させてもらったので事なきを得たが、全く電気がない環境で数時間を過ごすには我が家の備えは全くもって不十分で、日ごろの防災体制の甘さを痛感。6月の大阪北部地震での3時間車中缶詰め体験に続き、災害への備えと心構えを見直すきっかけとなった。

今回の経験は、被害といえるほどのものではない。本当に被災レベルになると、電気・ガス・水道などすべてのライフラインが停止し、その復旧には数週間~数ヶ月かかることもある。たった10時間程度、電気がないだけでも、実用面の不便だけでなく、心理面の不安が起こってくる。特に電気は情報入手の手段と直結しているので、テレビもラジオも使えない、スマホも最小限しか使えない、というのは堪えた。妹のところに一時退避できる環境があったからこそニュースで予想を超える被害状況も知ることができたが、ずっと自宅にいたら真っ暗な中で情報から遮断され、固定電話も使えず、いやがうえにも不安が募っただろう。

日が落ちても復旧の兆しは見えなかったが、私よりは防災の備えができていた妹宅からバッテリーやランタンを借りて自宅に戻り、とりあえず就寝。夜中に目が覚めたら、電気が点いていた。ホッとした。

日本は、世界でも有数の「物事が予定どおりに時間どおりに円滑に進む」社会。それだけに、想定を外れる事態への意識と備えが十分でない。考えてみれば子どものころは、日本も(災害でなくても)停電や断水がもっと日常的にあった。夕食時に電気がパッと消え、ロウソクを灯して晩ご飯を食べたこともあったと記憶する。昨今はそれこそ災害でもないかぎり停電しない。

エネルギー源の問題も含め、電力の安定供給はいずれの国でも大きな関心事だ。スマホやPC、ルーターなど種々のデジタル機器を誰もが使うようになり、社会全体として電気への依存度はますます増大している。だから、本当に電気がない、ということを真剣に考え、対策することを無意識のうちに回避する心理が働いているのではないか、と思う。特に、日本のように、普段「物事は想定どおりに回って当然」という感覚で生きていられる社会にいると、「想定外」への耐性が低くなる。加えて、自分は大丈夫だろうという正常性バイアスも働き、総じてリスクへの意識と備えが異様に低い日常生活を送ってしまう。

どんなにシミュレーションしても想定を超える事態は起こるし、すべての危険をゼロにすることはできないから、徒に不安に捉われ、日々の生活に支障をきたすほどの過剰な防御に走ることは賢明と思わない。しかし、たった10時間程度の停電で感じた不便と不安を考えると、己の「想定外」耐性の低さを認めないわけにはいかなかった。

日本は地震や台風など自然災害の多い国。特に未曾有の台風・水害頻発の今年、日常生活の一環として防災対策にきちんと意識を振り向けようと決意した。

2018-08-31

路上にインドの本質を見た!―印度亜大陸印象記その1

先週、インドへ行ってきた。デリー~ジャイプル~アグラ、いわゆるインドのゴールデン・トライアングル。正味4日の駆け足ツアーで、広大な印度亜大陸のほんの一部を見たに過ぎないが、長年行きたかったアジアの本丸。学生時代に企てながらも未遂に終わったインドへの旅、20年越しで実現した。

そんなインドの最大の印象。

道が凄い。

路上が凄い。

タージ・マハルもジャンタル・マンタルもアンベール城もすごいが、インドの何がすごいって、道が凄いのだ。そこで、ナマの印象が生きているうちに、何はともあれインドの道について書いておきたい。

野良ウシ@高速道路脇

野良サル@高速道路脇

高速道路を悠然と歩くゾウ(野良ではありません…笑)

賑やかな巡礼の行列

インドの道路は凄い。今まで行ったアジアのどの街とも違う。交通量が多いのは、アジアの都市共通の現象だが、路上でのバラエティが桁違いなのだ。クルマ、リクシャー(オート三輪タクシー)、バイク(人数無制限!?)、ヒト、ウシ、犬、サル、ロバ、馬車…およそ動くものほどんどすべてがひしめいている。クラクションは常時鳴り響き、ウィンカーは殆ど出さない。信号は必要最小限しかなく、無視も日常茶飯事。バイクは3人乗りスタンダード、50ccの原付に一家5人乗りとかも決して珍しくはない。母親の腕からずり落ちそうなベビーを乗せて疾走するファミリーバイク、サリー姿の女性がノーヘルメットで後部に横乗りしている光景もごくありふれたもので、日本ではおよそ許容されないドライビングシーンの数々。

高速道路も然り。そもそもインドの高速道路は、自動車専用道路ではない。(法律上は知らないが…)高速といっても、高架であったりフェンスで仕切られているわけではないので、ヒト、ウシ、サル、手押し車、馬車・・・基本的に何でも出入り自由なのだ。人も普通に横切っていったりする。集落がある辺りでは横断歩道があり、スピードダウンを促すために、車の走行を遮るような形で衝立が置いてあったり。(減速しながら衝立の間を通り抜ける。)構造的にも完全な一方通行仕様になっていないので、反対車線の車やUターンした車がひょこっと逆走してくることもある。軟弱な乗客たるわれわれはギョッとして肝を冷やすが、ドライバーもガイドも表情一つ変えない。そんなスリリングな高速の路肩や分離帯では、のんびりとウシが寝そべっていたり、草を食んでいる。

―あ、あのぉ、高速に人が入ってもいいんですか… ・o・/
―え、えっと、高速にもウシがいるんですね… f^_^;


―(間)それがインドですよ(微笑)

野暮な私の質問に、ボードガヤー(ブッダガヤ)出身の仏教徒だというガイドのG氏は、菩薩の微笑を湛えて答えた。パーフェクト・アンサーだと思った。これ以上端的にインドを物語る答えはないと思った。

ヒトもクルマも動物も、自分たちの動きたいように動く(ように見える)。至る所で接触や衝突が起こっていても不思議でない状況と映るが、意外にも事故はなく、ドライバーの喧嘩やもめ事もない。(少なくとも4日間、一度も見なかった。)

一見カオスに見える路上には、確かに「秩序」があった。そのあり方が私たちの考える秩序と大きく異なるということであって、「カオス」とは違う。

ヒトも動物も、老いも若きも、ありとあらゆる生きとし生けるものがひしめきあう路上。それは不思議に開かれた場所だった。厳格な身分制度や激しい経済格差が存在するインドにあって、路上は不思議に自由なオーラを放っていた。

■旅のあしあと *は世界遺産

August 18, Sat. KIX→Delhi, Indira Gandhi Intl.Airport
August 19, Sun. Delhi→Jaipur
ラクシュミーナーラーヤン寺院、フマユーン廟*、クトゥブ・ミナール*
August 20, Mon. Jaipur
ハワ・マハル(風の宮殿)、シティ・パレス(マハラジャの居城)、ジャンタル・マンタル(天文台)*、アンベール城*
August 21, Tue. Japiur→Agra
ファテープル・シークリー*、アグラ城塞*、タージ・マハル*(正面反対側の川の対岸から)
August 22, Wed. Agra→Delhi
タージ・マハル*(入場観光)
August 23, Thu. KIX着

2018-04-06

ネウティブ英会話?!

よく通る道沿いの英会話教室の窓に、大きく書かれている↓

「ネウティブ英会話」

ん?ネウティブ?ネイティブ?ネイティヴ?

英語をカタカナで正確に表記することはできない。
とはいえ、通るたび「大丈夫かいな、ここ…」と思わずにはおれない。

まぁ、イタリアンレストランで Itarian と書かれた看板を見たこともあるし、native が ネウティブ でも大した問題ではないかもしれない。

高校時代、学校でいちばん怖かった英語の先生は、原音主義なんて所詮気休めだというようなことを言っておられた。たとえば、Washington を ワシントン と表記しているが、原音に近づけるならばウォッシントンとでもすべきだろう。しかし、それとて日本人の発音では、英語のそれとはかけ離れたものになる。そもそも英語には日本語にない発音も多いのだから、こだわりすぎるのはナンセンスだ、というような主旨だったと思う。

大学に入り、論文を書く段になると、しかしながら、外国の地名や人名のカタカナ表記は、けっこう悩ましい問題になる。学問の領域では、なるべく原語の発音に忠実に表記するのが原則というか慣例なので、例えばベネチアではなくヴェネツィアとか、セルヴァンテスではなくセルバンテス(スペイン語ではVの発音はB)とか、いろいろ気にしなければならない。ギリシャ語やラテン語となれば、さらに事情は複雑だ。ソクラテスかソークラテースか、プラトンかプラトーンか、ウェルギリウスかヴェルギリウスか、とか。口頭試問でけっこう突っ込まれたりもする。書物の冒頭に、外国語表記についての凡例が記されているのを目にすることも多いと思う。論文や専門書では、人名など一般に流布しているのとはかなり違う表記がなされていることも珍しくない。

というようなことを、昨日バスの中でつらつらと書いていたら、うっかり停留所を3つも乗り過ごしてしまった。30分ほど余計に歩くことになったが、ほどよいウォーキングの機会が得られたのでよしである^o^

して、もとの話題。特にオチも結論もない、「ネウティブ英会話」という看板から広がった単なる連想だが、たしかに原音に忠実にといっても、限界がある。最近アイスランドに行ったのだが、アイスランド語の子音などカタカナで正確に表記することはほぼ不可能に近い。だから、(日常においては)こだわりすぎるのもどうかと思う。

が、しかし、nativeをネウティブっちゅーのはなぁ…教室の中身に一抹の不安を感じてしまうな~けど、ネイティヴとまでやらなくてもいいような気もするしな~。どんなもんやろな~。

という、ただそれだけの話である。

閑話におつきあいいただき、ありがとうございました<(_ _)>

2018-04-04

Travelog

旅が好きだ。

言葉としては、「旅行」より「旅」が好きである。なんとなく漂泊感があるからだろうか。

旅行が「趣味」かと問われると、YESというにはちょっと違和感があるのだが(個人的な旅でもある意味フィールドワーク的な面があり…)、いろいろなところへ行きたいという素朴な思いは、子どものころから今に至るまで変わっていないと思う。

といっても、それほどヘビーなglobetrotterではなく、まあほどほどのtraveler。旅程らしい旅程もなく、思い立って2~3日で飛行機や1~2泊分のホテルだけ手配して単身バタバタと旅立っていた時期もあるが、近年はだいたいパッケージツアーのお世話になっている。

そんな「ほどほどtraveler」だが、旅の記憶は綴っておきたいという思いをずっと思っている。写真も整理・編集してアルバムにできればベストだが、そこまでいかずとも、自分にとっての旅の記憶をまとまった形にしておきたいという欲求がある。旅というものは、自分の精神に何かとても本質的に大事なものを与えてくれていると感じるからである。

そう思いながらズルズル時が経っていることにまた、己の実行力のなさを見せつけられ、ちょっとイヤになるが、とりあえず旅のログだけでもメモっておくことにした。

1992.01 London 8days
1995.   香港・マカオ 4days
1996.02-03 Italy & Spain 13days
1996.08 Singapore 4days
1997.07 Assisi, Italia 16days
1998.08 Paris, Italia (Milano, Bologna, Parma, Padova, Vicenza, Trieste) 3wks
2000.08 Italia (Emilia Romagna, San Marino, Friuli-Venezia Giulia), Belgium (Brussels, Brugge, Entwerpen) 3wks
2001.01 Paris, Brussels
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2007.09 Nouvelle Caledonie 8days
2008.03 Hawaii 5days
2008.07 韓国(釜山→半島西部を北上→ソウル) 5days
2009.02 台北 4days
2009.09 Italia―Venezia, Firenze, Roma 8days
2010.05 ソウル(UNESCO-WCAE) 5days
2010.08 北京 5days
2011.03 Turkey 8days
2012.03 Bali & Yogyakarta 7days
2012.08 台湾 周遊 5days
2013.08 釜山・慶州・ソウル 4days
2014.02 Nha-Trang, Vietnam 7days
2014.08 Ko Samui, Thailand 7days
2016.02 Hanoi (Vietnam), Angkor (Cambodia) 7days
2017.03 Czech, Austria, Hungary 8days
2017.03 Boston (Massachusets), Grand Rapids (Michigan) 7days
2018.03 Iceland, Helsinki 8days

2001年までは基本的に、Italia! Italia!! Italia!!!である。かなり長い休みを無理にでも取って、自分で手配して一人で行っていた。
2007年以降は、基本的にはツレと一緒の旅である。2人の予定を摺り合わせ、日程ありきで適当なツアーを探す形で決めた行先で、前もって強い思い入れがあったわけではない。
2001~2007年は、ほとんど休みらしい休みが取れず、海外旅行もまったくしなかった期間である。

書き出してみると、空白期間をはさんで、その前と後では旅の仕方が変わったけれども、どの場所でもやはり驚きと発見があり、それまでの了見が少し広がったことを思い出す。

人生の正午を迎えて、いつでも行けるわ~と思っていた旅先も、体力その他もろもろを考えると、だんだんハードルが上がってくるかもしれない。なので、いつまでも「いつでも…」というわけにはいかんな、ハードな場所には早めに行っておこう、と思うようになってきた。

旅は人気のレジャーだし、今や地球上のたいていの場所に、かなり安全に行けるようになった(ように見える)。本でもブログでも、旅の情報や紀行文は百花繚乱。しかし、自分にとって旅とは何なのか。情報伝達ではなく、自分にとっての旅の意味を深めてみたいと思う、人生のお昼どきALBAでありました。

2018-04-03

なわとび

最近、思うところあって、「なわとび」を始めました。

なわとびといえば、高校時代、文字どおり「縄」を使った二重跳び(前回し&後ろ回し)が体育の試験で課せられ、入学当初、ヒュンヒュン、ヒュンヒュン、と音を立てながら、家の庭で練習したのが鮮明な記憶。前回しと後ろ回しの二重跳びをそれぞれ所定の回数クリアしないと体育の単位がもらえず、パスするまで追試が行われ、わが校のちょっとした名物でした。

それから幾星霜。久しぶりに跳んでみると、けっこういい運動なんですねぇ、なわとびって。高校時代の「縄」と比べると、先日購入したものはいかにもライトなビニールの紐ですが、それでも一重跳びで連続50回ならず…(悔涙)二重跳びは、なおのことハードルが上がります。

子どものころは「遊び」だったなわとび。今となっては「エクササイズ」。その変化がちょっとサミシくもありますが、「なわとび」は、なまりつつある部分、そしてそこに適切な負荷をかけていくことの大切さを気づかせてくれました。

人生の正午。「昨日よりちょっとシンドイ」を心がけてみよう。



2018-02-07

楽器&me その2~青春のクラリネット

楽器と自分との関係を軸に、細く長い音楽との縁をふりかえる「楽器&me」シリーズ。

第1弾「恐怖のピアノ」に続いて、第2弾はクラリネットです。

幼少からのコワイ親父レッスンへの恐怖と反発から、ピアノは金輪際ゴメンじゃとばかり、中学生になると、半ば確信犯的にフェードアウトしていきました。しかし、「やめる」とはっきり明言せず、なんとなくズルズルとフェードアウトに持ち込んだことは、自分の中にある種の不全感を残し、一抹のうしろめたさを残したのも事実。それが、高校に入ってクラリネットを始めた遠因かもしれません。

中学時代は軟式テニスをやっていて、高校に入っても基本的には運動系のクラブに入ろうと思っていました。それが、入学した学校にたまたま「オーケストラ部」があって興味をそそられたこと、同じ学校に通っていた近所の一学年上の先輩がオケ部に入っていて、たびたび声をかけてくれたことがきっかけで、なんとなく心が動いて見学に行ったのでした。さらに、小学校時代、仲の良かった友だちのお姉さんが、やはり同じ高校の出身者で、オケ部でヴァイオリンを弾いているという話を聞いていたので、そのころから好奇心を覚えていたかもしれません。最終的には、新入生歓迎演奏会で聴いたベートヴェンの交響曲第8番にけっこうマジで感動したことがキメ手になりました。

正直なところ、実際の演奏を聴くまでは、高校に入って始めた人が主体の部活のオケって、どの程度?…と、かなりいぶかっていました。が、少なくとも私の期待値をかなり上回るレベルではあり、高校から始めても、こんな本格的な曲が演れるのか、と素直に感動したものです。これが吹奏楽だったら、入っていなかったのではないかと思います。部活として一般的な吹奏楽ではなく、高校(しかも公立)にはめずらしい管弦楽であったことが、私には魅力的でした。吹奏楽はともかく、オーケストラというものは基本的にプロまたは音楽専攻の人がやるものだ、という先入観があったからです。

そうして入部を決めたオケ部でしたが、選んだ楽器は弦楽器ではなく、木管楽器のクラリネット。せっかくオケに入ったので弦楽器に心を動かされつつも、もともとクラリネットが専門であった父親への配慮というかというか遠慮というか、そういう気持ちが働いて、いわば消極的な理由からクラリネットにこだわったのでした。(モーツァルトのクラリネット協奏曲&五重奏曲が好きだった、という積極的な理由もありました。)父からクラリネットをやれと言われたわけでも、教わったわけでもありませんが、ピアノを一方的にドロンしたことへの罪ほろぼしというか埋め合わせというか、当時の自分なりの父親への「忖度」だったのかもしれません。(ただし、父にレッスンを受けることは一切しナシ!これはピアノだけで十分。)

そうして、(自分の中で)スッタモンダしながら始まった高校のオケ生活。果たして、まさしく「青春のクラリネット」。自分史上でも最高にオモロイ(おもろすぎる)悪友もとい良き友に恵まれ、素晴らしき先輩後輩に恵まれ、今に続く最強の友人ネットワークの基盤となりました。自分がいちばん気楽に、自由に、ありのままでいられる場所でもありました。

高校から大学にかけての、感性鋭敏(過敏)な、喜怒哀楽に富んだ人生の早春。音楽ライフは、やはり時に「音が苦」。いつもいつも楽しいばかりではありませんでしたが、笑いも涙も悩みも喜びも、クラリネットとともに、そしてオケとともにあったような気がします。アンサンブルの楽しさを知ったのも、このころでした。

もし、この時代のオケ経験がなかったら、幼少からのピアノ経験だけだったら、今、音楽をやっていなかったかもしれません。この後、大学を出てからは、すっかり音楽アウェーな十数年を過ごすことになります。楽器を演奏したり楽譜を読んだりすることはおろか、コンサートに行くことも、CDを聴くことさえも、めっきり少なくなってしまいました。その中でも、「またいずれ音楽をやりたい」という心の火が完全に消えることなく、微かにでも灯り続けていたのは、オーケストラを通じて、大小さまざまなアンサンブルの喜びや愉しみ、(うまくいったときの)感動を経験していたからだと思います。

子どものころに嫌々ながらやっていたピアノは、ソルフェージュや読譜などの基礎をつくるのに役立ったかもしれませんが、音楽が好き、楽しい、という精神的な基盤は、主にオケ経験によって育まれました。幼少期の根深い「音が苦」体験にもかかわらず、音楽への思いが苦痛一色に塗り込められなかったのは幸いでした。

今はケースの中で百年の眠りについているクラリネットたち…いずれまた、怪しい調べとともに呼び覚まされる日を待っているかもしれません。