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2019-12-29

仕事とネズミ★2019年ふりかえりの記

なんと、今年はまだ一度もブログを書かないまま年末を迎えてしまいました。
年に一度は投稿を!2019年をふりかえります。

2019年は、個人的に変化の富んだ、濃厚な一年でした。

まずは、サクッと仕事関係。

春先に仕事を変わって、某大学で新しい国際教育プロジェクトに携わるようになり、毎日が濃すぎて、今ふりかえっても激動のフロンティア・ライフでした。日々、開拓と課題解決の連続で、正直なところ、この少数精鋭部隊(と思いたい!)でよくまぁ乗り切ったなという感じです。素晴らしい仕事仲間との縁もまた、今年最大の宝です。人生半世紀を過ぎて、こうした刺激的な環境に身を置けるのは、(かなり大変ではありますが)ありがたいことです。

そして、ドップリじぶんワールド。

特筆事項は、人生半世紀を過ぎて「ディズニーにドハマり」したことです。発端は2018年9月のシルバーウィーク。連れ合いに付き合う形で、どちらかといえばあまり気乗りせず、四半世紀ぶりに再訪した東京ディズニーランド、そして初めてのディズニーシー。

ちょうどハロウィーンのシーズンで、入場してみると、いたるところコスプレの嵐。ベルだのアリエルだのエルサだの白雪姫だの…コスプレイヤーたちの半端ない気合に、ただただ圧倒されるばかり。何しろ前回来たのは20世紀の終わり。たぶん似たような時期だったと思うのですが、こういうコスプレは記憶にありませんでした。学生だった当時、普通に楽しいなと思ったぐらいで、ディズニーランドの印象はそれ以上でもそれ以下でもありませんでした。

しかし、此度、パーク全体に充満する熱気に押されながら、人は何を求めてここに来るんだろう?ここまで人を惹きつける磁力は何だろう?…と、考えつつ園内を逍遥し観察しているうちに、気づいたら自分がドボン!とハマっていたわけです。

関東に住んでいれば確実に年パスを買っていたでしょう。しかし、大阪からではちょっと踏ん切りがつかず、年パス購入は控えました。が、結局それからの1年間で3回、延べ9日行ったので、年パスの方がおトクな計算に(苦笑)。写真は今年9月の東京ディズニーランド&シー。




ちょうど2018年はミッキーマウス生誕90周年だったこともあり、グッズ萌えも加速。仕事帰りにディズニーストアへ寄るのが楽しみになり、限定品収集もヒートアップ。日に日にネズミ製品が増えていき、周囲は目が点。

1年以上たった今もその熱は一向に冷めやらず、否、それどころか益々過熱し、来年2月にはついにアナハイムの本丸へ乗り込むことに。当然ながらその次のフロリダも視野に入ってきており、聖地巡礼の趣さえ出てきました。

大山鳴動して鼠一匹、と言うけれども、いやはやネズミ一匹世界を動かす、でございます。今年の激務を乗り越えられたのは、よき仲間と、よきネズミのおかげかもしれません。

そして来年は、Year of the MOUSE ;-)

なにはともあれ、今年は面白い年でした。大変だったけれども刺激的だったこの1年に感謝し、新しい年を迎えたいと思います。

Happy holidays to everyone!

2018-09-08

My Happy New Year!★我的新年

私事ですが、9月はワタクシの誕生月です。

そのせいか、8月も後半になってくると、いろいろな意味で心がソワソワ、ザワザワしてきます。
年末も視野の片隅に入ってきて、新しい手帳のことなど気になりだす時期でもあります。

特に今年は半世紀+1回目の誕生日を控えて、「50」という数字に中身が追いついていない感が沸き起こり、暑い夏と同様にジリジリとした焦燥感に苛まれております。昨年、半世紀を迎えて、自分なりに心機一転したつもりですが、さてどれほど変わったか、変われたか、と自問すると、けっこうキツいものがあり…(苦笑)

そんなこんなのグダグダ低空飛行モードを引きずりながら、地を這うようにグダグダ考えていて、思い立った。

9月を(自分の)新年にしよう。

ということで、勝手に謹賀新年。

My Happy New Year!

海外では10月に新年度が始まるところも多いけれど、それを1ヶ月前倒しでジブン的新年&新年度。

すると、1月、4月、9月、とそれぞれにいい頃合いで節目を意識できて、こりゃなかなかエエんじゃないかと。

といわけで、(今までも何となくそんな意識はあったように思いますが)今年からは明確に「9月」をジブン的新年と位置づけることに決定。

2018年9月、ALBA暦元年です(笑)

2018-01-15

2018MYキーワード

今年の自分的キーワードが決まった。

・覚悟
・統合
・面白さ

である。

文にすると、

覚悟をもって
今までやってきたことを統合し
面白いことをやっていこう

となる。

このなかでいちばん大事に思っているのが、「面白さ」である。

私は、自分の言ったこと、やったことが「面白い」と言われたとき、最高にハッピーである。「素晴らしい」とか「立派だ」と言われるより嬉しい。(あまり言われたことはないがw)

気のおけない旧友などに会うと、しみじみ「あんた、ホンマにおもろいなぁ」と言われることがある。学生時代、かなりカゲキかつアホなことを言って友と笑い転げていたので、旧友に会うとその身体記憶がカムバックして、面白さのスイッチが入るのかもしれない。

ひるがえって、現在。

―昔より面白くないんとちゃうか?自分。。。

まあ、それなりには面白いかもしれないが、いろいろな意味で「面白さ」を忘れていたように思う。

「面白し」とは、もともと目の前がぱっと明るくなる感じを表すのが原義といわれる。
いわゆる楽しい、愉快、滑稽、可笑しい…などほか、景色などが明るく広々として気分がはればれする感じ、対象の事物が普通の基準からみて新鮮・奇抜で変化に富み、興味をそそる、などの意味合いがある。

人が「面白い」というとき、それは単に笑えるというだけでなく、どこか新しい切り口、今まで考えたこともなかったような視点に、目から鱗が落ちるような感覚をともなっているのではないか。

英語のinterestingは、(主として知的な)興味・関心をそそるような面白さを表すが、日本語の「面白い」は、もっと広がりのあるconnotationをもっているように思う。interesting も好きな語だが、やや知に傾きすぎているきらいがあり、「面白い」のもつ豊饒な世界観を表しきれない。

というわけで、OMOSHIROIを、MOTTAINAI、KAWAIIに続く世界標準のニホンゴにしよう、というひそかな野望を抱いている。

人生のおひるどき(只今正午です)、あらためて「面白い/OMOSHIROI」を追求します。

2017-12-13

「中年」考

私は「中年」である。

「中年」―この、いかにもくたびれた「中古」感満載のワード、近年あまり受けがよろしくない。

現代のシニアは、男女問わず元気いっぱい。かつて紛うかたなき「オバサン」だった40~50代女性も「美魔女」モード全盛の昨今、総じてキレイで若々しい。初老にさしかかり、定年退職や子の独立を控えて、しみじみとペーソスの漂う中年像(たとえば小津安二郎の映画に出てくるような?)は、すっかり過去のものになったようだ。

しかし。

世の中が全力で「老い」というものを隠ぺいしようとしているかにみえる今、あえて「中年」という言葉から、人生のこの時期について考えてみたくなった。

今やかつてのような敬老文化はすたれ、単に歳食っただけでは尊敬どころか、お荷物扱いされかねない時代。
一方で、90~100歳のスーパー長寿も珍しくなくなり、それにくらべれば中年ごときはハナタレ小僧。

若さでは勝負できない。
年の功をウリにもできない。

40代後半~50代ぐらいの、いわゆる「ザ・中年」は、何とも中途半端な時期なのである。

「中世」が古代と近代の「間」にあって、長らくその独自の価値を認められてこなかったように、「中年」もまた若年と老年の「間」にあって、自律的な自己規定が難しい時期なのかもしれない。

単に歳月を重ねただけでは、自慢にもならない。過去の蓄積だけを切り売りして生き延びる姿は、イタい勘違いになりかねない。チャレンジャーたることを求められるが、創造的破壊力と前進力の点では才能ある20~30代に及ばない。
かといって、「もうトシだから」と隠居モードにシフトすることも許されない。見上げれば、まだまだ元気な高齢者、超高齢者がワンサカなのだ。

かつて「中年」は、おそらく「老年」の入り口であった。さまざまな社会的役割から少しずつ後退し、次の世代に譲りながら、人生の歩みをスローダウンしていく過程であったのではないかと思う。ライフスタイルや考え方には個人差があるから、一概にはいえないが、少なくとも「世間」が規定する一般的な中年のイメージは、若人よりは老人のそれに近いものであっただろう。

こんにち、「中年」のイメージは大きく変わった。少なくとも外見上、中年期以降のあらゆる年代の人が、昔より確実に若い。行動様式も然り。昔のように「隠居モード」になれないのは、個人の志向と、平均寿命が長くなったゆえの社会的要請の両面があるだろう。

論語には「不惑」「知命」というけれど、目の前にはなお幾多の分岐があり、どの道を行くかでこれから先が変わる局面も多い。しかもその選択は、若い時のような、甘美な無知と幻想に彩られながらも、否それゆえに「なんかワクワク♡」といったような、フンワリした上昇気流気分の選択ではなく、来るべき未来(自分としての終局点)を見すえた上での決断・選択にならざるを得ない。

つまりは、本当に中身が問われる時期だと思うのである。

成熟・円熟と、単なる老化・劣化の違い。

最近よくそんなことを考える。

 ・・・と、こんなことを考えること自体が、midlife crisis(中年の危機)なのか?!

とツッコミを入れたくもなるが(たぶん、そう)、要は世界の見え方が変わってきたということなのだろう。

親の老いは、否応なく自分の行く末を考える一つのモノサシとなる。「まだ若い」と「もう若くない」の中間地点にいる自分と、「もう若くない」エリアにいる親の現在から見とおす自分の未来予想図。それはいつもバラ色とばかりは限らず、突き詰めていくとユウウツになりもする。

しかし、ある意味では、今まで見えていなかった地点から、人生を眺めることができているということなのかもしれない。そして、その時まで生きてこられたということ自体が、実は貴重な体験なのかもしれない。

なにやら抹香臭い予定調和的な締めに流れつつあるが、わが中年ロードはこれからも続く。

「中」の文字は、「中心」「中央」といった意味から、「(上でも下でもない、大でも小でもない)中ぐらい」「中間」といった意味まで、いろいろな含みがある。なかなか深いではないか。いろんな意味で人生の「真ん中」であり、「中間期」である中年。思考と人間性に深みを増すか、ただ経年劣化していくか。大いなる分岐点。人生の骨格を組みなおすときかもしれない。

ビバ 「中年」!

これからあえて「中年」というコトバにこだわりつつ、「中年道」を究めてみようかと思っている。

2017-12-05

あたらしい手帳

12月から新しい手帳を使い始めました。
11月はじまりのジブン手帳を。

もう一つのほぼ日手帳は、きっかり1月はじまりなので、もうしばらくスタンバイです。

新しい手帳のワクワク感。

まっさらな手帳に書き込む緊張感。

まっさらの紙に書く〔描く〕という行為は、意外と緊張感を伴うものです。

アートワークショップなどで、白い紙だと緊張して(うまく描かなければという気になってしまって)、なかなか描けないという人もいます。そんなときは、あえて新聞紙や裏紙を使ってみるのも一つ。描くことへのハードルがグンと下がります。

手帳やノートも同じで、おろしたての頃は、キチンと、キレイに書こうという意識が勝ってしまって、かえってアクティブに使えなくなりがち。日々使い込んでいくうちに、そんな呪縛も解けて、まさにジブンの手帳になっていく。そのプロセスもまた、楽しみです。

一足早く新しい手帳をおろし、師走のうちにある程度trial & errorで使い込んで、年が明けるころには文字どおり「ジブン手帳」になっていると良いなぁ。

2017-11-08

継続は力なり

「ほぼ日手帳」の購入をきっかけに、「ほぼ日刊イトイ新聞(略称 ほぼ日)」の存在を知った。
http://www.1101.com/home.html

コピーライターの糸井重里が主宰、株式会社ほぼ日が運営するウェブサイトで、毎日更新されている。Wikiによれば、「日刊」ではキツイだろうということで「ほぼ日刊」と銘うったらしいが、結果的に1998年6月6日の創刊から今日まで、一日も休まず更新されているそうだ。糸井氏自身も毎日トップページに“エッセイのようなもの”を執筆、掲載している。

ほぼ20年間一日も休まず…このことだけで敬服至極。以来「ときどき」読んでいる。(私の場合、単にアクセスするだけでも「ほぼ日」にも至らない。)

以前に参加したマインドマップのセミナーの講師も、数年来毎日メルマガを配信していると言っていた。土日だからとか、風邪を引いたからといって休むと、かえってペースが乱れて(再開するのが)しんどいから、と。

何であれ、一日も休まず続けるというのは大変なことだ。どんな些細なことであっても、である。高熱を出してフラフラの日もあれば、終日外出で時間が取れないこともある。書き物なら、どうにもネタが浮かばないこともあるだろう。そんなハンディを乗り越え、「今日一日ぐらい休んでも…」という様々な誘惑を退けて、どんな条件下でも決めたことを、それも長年にわたって実行し続ける。

若い頃は、これをやって成果があるのか、どのぐらいの成果が期待できるのか、ばかりが気になって、実行する以前に「見込める成果」を予測することに気がとられていた。小さなことの積み重ねが未来をつくる、と言われても、頭でわかっていても、実感が湧かなかず、継続へのモチベーションを維持することができなかった。しかし、昨今は、良きにつけ悪しきにつけ、日々の積み重ねが今を作っていると実感する局面が増えたのだ。特に「悪しき」方について。

年齢を重ねるにつて、大なり小なりバグというか、心身の不調やこれまでのやり方に不都合が顕在化してくるものだが、その元をたどっていけば、長年の間違った、不適切な習慣・方法に気づかされることが少なくない。食事、睡眠、姿勢、歩き方、呼吸から、ものの見方・考え方まで…それらはたいてい無意識にやっていて、何かの不具合を自覚したときに初めて見直す必要に迫られる。しかし、いったん身についた不適切な習慣や方法を正常化、最適化するのは、大変なことなのだ。

そして、ふと思い至った。

継続は力なり。

不適切な行動や習慣の積み重ねが、望ましからざる結果を招来する。裏を返せば、適切な行動や習慣の積み重ねこそ、望ましい結果への王道なのだ。100パーセントではないにしても、人間の営みの中で、小さなことの積み重ねがもつ重みは、思っていた以上に大きい。

ものすごい偉業でなくとも、どんな小さなことでも、毎日何かを続けている人、続けられる人には、心からの敬意を覚える。ミドルエイジど真ん中になって、ようやくその重みと凄さを実感するようになった。もっと若いころから実行していれば…という悔悟もないではない。

しかし、思い立ったが吉日。

今日からでも、倦まず弛まず、今日積むべきレンガを積み上げる人間になりたいと思う。

2017-10-19

「です・ます」か「だ・である」か?

語尾の話。

「です・ます」調か、「だ・である」調か。

私はもともと「だ・である」の方が好き、というか、慣れていて、筆が進みやすい。

なので、かなり昔に作っていたホームページ(ブログやSNSではない、いわゆるHTMLで書くホームページ)でも、文章は基本的には「だ・である」調だった。

しかし、、、

ブログになると、どうも「だ・である」調がそぐわない気がして、このブログも基本的には「です・ます」調で書くことにしている。ブログには、書き言葉然とした「だ・である」より、人に語りかけるような「です・ます」の方がしっくりくるように思えるからだ。あまたある他のブログでも、「です・ます」調の文章が多いような気がする。(調べたわけではないので、あくまで印象)

しかし、、、

自分としては、書きにくい。筆が進みにくい。

よって、更新が滞る。。。

オチはそれか?!

というのは、何ともおそまつだが、語尾は、内容と別の次元で文章全体の印象を左右するので、毎度けっこう考えてしまう。

と、ひとりごちつつ、久々に「だ・である」調で書いてみた。

うむ。ひとり言には、「だ・である」がしっくりくるな。
(丁寧語でひとり言をつぶやくことはないし。)

そういえば、SNSも「だ・である」で書くことが多いような。
(SNSの投稿はひとり言の延長みたいなものか。)

ともあれ、私には、「だ・である」の方が書きやすい。
これからブログでも、「だ・である」の頻度が上がるかも。

いや、ブログの頻度が上がる…か…も?!

駄文御免<(_ _)>